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第2章 2.ミーカガンを考案した父・玉城保太郎

                    

長田 文

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玉城保太郎さん
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ミーカガン

父は、安政元年鍋佐家の直系十一人兄弟の長男として、生まれた。幼名を樽と云ったが、明治38年保太郎と改名した。昔から貧乏子沢山の例に漏れず貧家に生まれた、父は、よく父母に仕え、漁業を営んだ。生まれつき研究心に富み進取の気性を受けた父は、ただ生活の為の漁業に満足しなかった。いつも大きな希望を抱き、冒険的なことを好み、若い頃には、未だ誰も行ったことがないと云われた大東島の無人島にも、行った話をしていた。父が二七、八歳の頃までは、水中眼鏡などというものは無くて、漁民達は、海中で思う存分の活動が出来ず、困っているうえに眼病に災されるものが多数であった。父は日頃之を見ていたので、どうにかして、それを救う道はないものかと、日夜苦心研究を重ねた。そして幾多の艱難辛苦と戦いながら、漸く明治十七年、待望の水中眼鏡を完成した。之は、父の三十一歳の時であった。之を一般漁民に普及せしめて、利福を与えたことは多大であったが、引き続き、桶眼鏡を考案して、それにも成功したので、大いに皆を喜ばせた。

 父は、元来機械をいじるのが大好きで、機械と名のつくものは、一々分解して見なければ気が済まない性分だった。人力を凡て機械化して、能率的な仕事をやることばかり考えていた。漁具の縄ナヒ機を考案して其の増進を計策した。現在使用している縄ナヒ機は、其の当時父が考案したものである。保(保太郎子息)が、医師開業して居た頃私が繃帯を手で巻いているのを見て、父は早速それを巻く器具を造って呉れた。その為に、楽で、時間的にもうんと能率が上がった。其の他ガーゼ整理器具も、工夫して呉れて、大いに助かった。そんなにして、父の頭は始終物事を能率的な方向へと働かせていたと思う。特に、漁具の改善には、心血を注いで、真先に、釣り針の改良に専念して、何度も自分で作り変えて行った。だから、父が家にいる時は、鱶つりの道具ばかり作っていた。以前、海亀を採るのに、海中で亀をひっくり返して採って居た為に、非常に危険を伴い、時には、其儘行方不明になることもあったから、父はそれに対しても、工夫考案をこらして、新しく鱶釣りの針を案出して、世に広めた。また、当時網糸も、日本内地から取り寄せて皆の便利を計るなど数うれば枚挙にいとまの無い程である。従って、父の仕事場には、各種の漁具や大工道具がいっぱいだった。

    中略

 あの頑丈な父も、寄る年波には勝てずに、昭和八年六月二日、思えば海外の三人の息子の上を駆け廻りながら、眠るようにして昇天した。何の苦痛もない父の最後は、誠に立派だった。

 父逝いて後、私は眠りから覚めたように感じた。父の存命中に、もっと詳しく色々と父の業績を聞いて置く可きだった。後悔しても追っつかない。自分の愚かさがしみじみと恥ずかしくて、亡き父に対しても今更申訳無い心持でいっぱいだ。せめて私の知った範囲だけでも書き遣して置かねばならない責任を痛感したので、茲にその一端を記した次第である。

     中略

 父は、子孫のために、何の遺産も残していない。併し、何物にも代え難い又誰にも求め得られない教化と偉業を遺して下さった。親の七光りのたとえ、父の光の陰に居る吾々子孫達は、御先祖の光をいやが上にも輝かすよう、自重して勉強努力しなければならない。そして、正しい人間としてご先祖の霊に報ゆるよう心がけねばならない。

【出典:父・玉城保太郎を語る 『青い海』 第9巻3号  1979年】