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第2章 5.糸満の海の言葉や地名が消える

島袋良徳(元糸満市文化財保護委員会委員長)

 近所に転居されたばかりの漁家から、とりたての新鮮な魚が贈られてきた。漁家の奥さんから魚を受けながら、家内が、クヮッチィーサビラ(ご馳走になります)とお礼を述べたので、私はその場で家内に注意した。漁師の家から漁獲物の贈り物を頂く時には、一般的な謝礼用語のクヮッチィーサビラは禁句だからタラジサビラ(足りませんが頂きます)と言い直すようにと教えた。

 通常の謝礼用語が禁句だと注意された家内は、納得いかない顔をしながら教えられた通りに御礼を述べると、魚家の奥さんはうれしそうに顔をほころばせた。「ご丁寧に有難うございます。この言葉はもうウミンチュー(海人)の家でも聞けなくなりましたよ。いや、もう知らない人が多いでしょう。なつかしい言葉ですね。私も忘れかけていましたよ」と話して喜んで帰られた。

 漁師から漁獲物を贈られた時に述べるタラジサビラの謝礼用語は、「頂いた分量では不足します、もっと多くとって来てください」の意味で、漁獲物を贈られた人が、贈ってくれた漁師の大漁を祈願するお礼の言葉である。クヮッチィサビラの謝礼用語を使わない理由は、この量で満足しています、ということで、これ以上の漁獲は不用を意味する言葉として嫌われていた。漁師だけでなく、周囲のひとびととの共存共栄を願う昔の海人たちが残した意義深い言葉であった。

 沖縄では、昔から海は聖域としてけがすことを忌み嫌っていた。糸満の漁労社会の先人たちは、聖なる海からの恵みを授かるだけではなく、海や生き物を守ることに配慮して大漁を祈る言葉にもその心を込めて願っていた。大漁を祈願する時に、コーバンギラーシミテイクンソーリという言葉がある。糸満言葉のコーバンは、商いに使う計量用の角桝のことを言うが、「ここでは、サバニ(くり舟)の中央にしつらえた四角の板囲いのことで、とれた魚を入れて置くところである。ここに桝を見立てて、コーバンと言っていた。

 ギラーは、マスの表面を平らに切ることで、コーバンギラーは切り桝の状態を示している。言い換えれば、海の恵みは切り桝ほどに収穫させてくださいと願う言葉であり、自然の施し物は桝に盛り付けるほどに多く取る事を慎み、節度ある量の収穫を守るようにと戒めた言葉である。戦後の急速な漁労文化の変遷に伴い、現在はこの言葉を耳にすることはない。海を頼りに生きてきた糸満の海人たちの社会には、海の自然を守るために、海の恵み物の乱獲を自粛していた先人たちの漁労文化があったことを訓えている。

 戦後の糸満における漁労文化を垣間見て思うに、特に幅広い分野に影響を及ぼしたのはサバニの動力が機械化したことであった。沖縄で原動機が最初に導入されたのは1948年であった。46年の海外引き揚げで南方から帰郷した糸満の玉城清蔵が、南方の移民地で修得した技術を駆使し、沖縄で初めてサバニに単機筒の小型ガソリンエンジンを取り付けて走らすことに成功した。

 ちなみに、当時の沖縄は本土や海外からの引き揚げ者が帰郷し、戦禍を免れた生存者たちが避難先から帰り、廃墟の中から立ち上がって街の復旧に全力を傾けている時期であった。沖縄民政府の機構改革、戦後初の市町村長及び議会議員選挙、日本円からB円(米国軍票)への通貨切り替え、琉球銀行の創設、市町村制布など、アメリカ軍政府の官下にあって、戦後沖縄の政治、経済、産業、文化など地方自治の基盤整備にようやく手が着けられた年であった。

 沖縄戦終焉の糸満地域には、米軍の砲弾や薬きょうが積みおかれ、不発弾も散在していた。不要になった機械や器具がスクラップとして集積され、小型のガソリンエンジンが米軍基地から数多く廃棄されるのに着目した玉城清蔵は、これをサバニの動力とすることを考えた。サバニに据えるエンジン、スクリューや軸受けの位置、スクリューの規格、型などを決め、イノー(礁湖)内の浅海を走らすサバニの安全運航の万全を図りながらの研究を積み、その実現のために「糸満船具工場」を設立した。

 わずかな面積の工場内に鋳物場を設け、米軍払い下げの旋盤や機械・器具を整え、米軍が放置した薬きょうを溶かしてスクリューを鋳造した。スクラップ鋼材を利用したシャフトに着けて仕上げるなど、玉城は全工程を独自の研究と技術でこなし、ついに、エンジンで走らすサバニ造りの目的を果した。

 本来サバニは櫂や帆で走らすという固定観念をもつ海人たちは、言動化する話にはまるで無関心であった。不信の念で試運転を見ていた漁師たちは、イノーの海面を滑るように快走するサバニを見て驚き、相談や注文が相次いできた。この情報は奄美大島や宮古、八重山、読谷の地域にも伝わり、玉城清蔵が鋳造したサバニのスクリューは、やがて、南西諸島の全域で使われるようになった。

過程における異常な体形の変化現象がなくなったことである。戦前の漁家の子弟は、小学校在学中は剛健で目立って強く、隣村〇〇生徒とのリレー競走には抜群の成績を納めていた。ところが学校卒業後は変わり、肩幅の広い頑丈な状態は下半身の方に細くなり、逆三角形の体形に変わるのが常であった。本来のサバニ漕法は、サシカ(座板)の上に正座したままで上体に力を集中し櫂を漕ぎ続け、下半身を使わないために逆三角形の体形に変わっていった。

 戦後はサバニの原動化に伴い、漁師たちはサシカに正座する必要もなくなった。また、異常に体形が変化する現象は無くなった。サバニの原動力は、糸満漁師の保健環境の改善〇〇が大きく貢献している。

 糸満のイノーの地名が失われつつある。主な原因は埋立事業の浚渫で漁場が削られ、イノーのアンブシ(建干網)漁者が減少したこともあるが、サバニ原動化の影響もあると指摘する古老もいる。サバニをこぎ進める時には海の地形もよく目に映るが、原動化で舟の速度が速くなり、海の地形を確かめる時間の余裕がないという。イノーが削られて漁場を失えば、海人たちは沖に出るしかない。サバニはイノーの海面をさっと走り過ぎて行き、イノーの海の地名は何時か消えていく。

【出典:日本民俗文化資料集成 第3巻漂海民 家船といとまん 三一書房 編集のしおり10】