--> 海人工房資料館ハマスーキ

第3章 1.海人の防衛隊

玉城牛次郎

昭和2年生  屋号前上ン当

防衛隊として名城へ

 当時私はウミンチュー(漁師)をしていたが、戦争になって海作業もできなくなった。私たちウミンチューは防衛隊にはとられないと聞かされていたが、区長や班長が言うには、若いのは戦に使うということで防衛隊に行かされた。

 私は昭和2年(1927)生まれだが、防衛隊に取られたのは19歳の年で、雨期のころだった。どんなふうにして防衛隊に行かされたのか覚えていないが、強制だったよ。

 最初は名城に派遣された。名城の東側に大きな自然壕があって、そこに行かされた。服は軍隊の古着を着せられた。曹長クラスが、避難して空き家になっている家を借りていて、炊事場となっている家から弁当を運ぶのが私たちの仕事であった。私の担当は出口曹長で、炊事場は〈前神差〉という大きな家だった。

 私たちは小使いだから雨降りの時も飯運びをした。雨降りの時、曹長に「玉城君、外衣を着なさい」と言われたことがある。雨降り用の外衣に階級章が入っていて、階級章の星三つが曹長、軍曹が二つ、伍長は一つである。私の付けた外套には星が三つ付いていたが、自分ではその階級章に気が付かない。ある時弁当箱を持って歩いていると、石部隊という歩兵部隊が隊列を組んでやってきた。その時私に「頭、右」と敬礼しよったよ。

 夜はマルレ特攻艇の訓練のために浜に降りた。特攻部隊だった。そのころ、海に行けば大きな軍艦が沖縄を取り囲んでいるというのに、海岸端まで行って「まだ状況が悪い」ということで、「砂に舟を埋めて隠すというようなことをしていた。

神山島斬り込み隊

 私たちウミンチューはサバニやクリ舟が専門ということで、舟を使って兵隊の仕事の付き添いをさせられたんだが、名城の次に行ったところは真玉橋の壕だった。そこは暁部隊専用の壕であった。暁部隊は特攻隊で、ほとんどが海岸線にいた。そのころ、神山島にアメリカ軍が基地を作っていて、そこから砲撃をしていた。それを爆破するため、私たちも一緒に斬り込みをするというのだが、そんなことをしたら死んでしまうと思ったので、壕の中で話し合いをした。そこで私は「もし重砲破壊に成功しても、誰が本部に報告するか、帰りの舟がなかったら向こうにやられるよ、犬死にだよ」と説明をした。いろいろ議論したあと、私は「じゃあそれでいい、自分たちは兵隊がくるまでクリ舟を流されないように板をしておくから」と言って、」ようやく話は落ち着いた。

 防衛隊3名ぐらいだったと記憶しているだが、その中で大城亀吉のことは良く覚えている、彼は私より10歳年上だが真面目なので兵隊に物がいえなかった。私たちは真玉橋の壕を出て垣花に行き、サバニを盗み、兵隊を乗せて那覇の西のぐらい離れていたと思う。神山島の砂浜に連れていった。潮が引いていたから、自分たちの所から海岸までは100メートルぐらい離れていたと思う。日本の斬り込み隊って怖いよ。本当にやりよった。一番上の曹長が刀を抜いて「進め突き」というと、部下二人が爆薬を肩に担いで50メートルか100メートルほど行った時分、アギジャビヨー(ビックリした様子を表す語)バラバラするもんだから私たちはすぐに逃げた。どうしようもなかた。帰って来る兵隊は一人もいなかった。後で聞いた話だけど、アメリカは砂浜に電線を引いて待ち構えていたという。

 次に行った所は慶良間の渡嘉敷島である。渡嘉敷島に通信機器を運んだんだが、これは成功した。部隊名は分からないが、通信部隊じゃないかな。山の上まで通信機を運び、そこに兵隊も置いてきた。

 昼は軍艦が多いためクリ舟をこぐのはいつも夜であった。渡嘉敷島の帰り神山島の近くまで来たときにサーチライトで照らされたので、舟は捨てた。クリ舟に較べたら我々の頭は小さいし、軍艦からは良く見えないから、クリ舟の進む方向とは反対の方向に泳いでいった。その時にはもう友達のことを考える余裕もなく、一人で壕に戻った。

首里から海伝いに恩納・東村へ

 首里の壕へも行った。優秀特攻兵の小使いということで本部に招待された。夜中に真玉橋から首里まで兵隊と歩いていったが、バラバラと弾の音が激しいのでびっくりするし、兵隊の銃を持たされて重くて大変だった。私たちは兵隊の訓練をしていないから兵隊の半分も歩けない。首里の壕は真玉橋の壕に較べると内側に材木を使っていて、無線用の配線もしてあるし、爆弾が落ちても崩れない上等の壕だった。牛島閣下の本部と言っていた。その壕の玄関にアメリカ兵が裸身で手をくびられて捕虜にされていたのを覚えている。

 首里の本部から恩納の山に派遣された。アメリカの通信機を破壊するのが私たちの役目だった。自分たちだけなら恩納に行く必要はないんだが、海の技術があるから一緒に行かされた。陸は危険で歩けないので、知念の方に行き、海から行くことにした。クリ舟は主がいなくて、捨てられているのがたくさんあった。まず勝連の浜比嘉島に行き、そこで昼間は隠れて休んだ。夜は軍艦もずっと沖の方なので、海岸端のクリ舟は小さくて見えないから、夜、隠れながら行った。恩納山近くの海岸に降りると、アメリカ兵が海岸端を警戒していて、すぐに機銃掃射された。私たちは山の上まで逃げていった。どこをどう歩いたかわからないが、足の傷にも気がつかないまま、東村の方まで逃げていた。

機銃でやられて平安座へ

 兵隊は山原では自由行動で何もしていない様子であった。ヤンバルの防衛隊にいた下門ヒロシという人に「平安座はいい島だよ、食料もあり安全地帯だ」と言われたことがあったので、兵隊が平安座に行くので、私たちも一緒に行く事にした。東村からクリ舟を出して平安座島が見えるところまで来たが、敵の掃海艇にサーチライトで照らされ、機銃を打ち込まれた。その時は他人のことを考える余裕など全くなかった。私は目の前の近い島に泳ぎ着いた。すると「ハーロー」って」英語で声をかけられた。私はすぐに「伏せ」をしたが、そのとき弾を打ち込まれた。バンとちょうど熱いお湯をかけられたみたいだった。

体の4か所に傷を負ってしまった。弾は脇腹から入って胸から出て腕を貫通して顔の下から出た。米兵は死んだかと思ったのか、あとは一発も撃ってこなかった。私は、這って海に出て、平安座まで泳いでいった。すると運よくそこに大城亀吉がいた。彼は機銃を打ち込まれた時、平安座島まで泳ぎ着いていて怪我もなく助かっていたのである。

 私は下門ヒロシの家を捜し当て、そこで世話になった。アメリカの監視が来ると裏座に隠れた。捕虜になるのが一番怖かった。薬はないから、私は女の子たちに海に連れられ、潮で治療してもらった。食糧は自給自足で豆腐やト-マーミー(ソラマメ)などがあった。

【糸満市史7巻戦時資料編下巻より転載】