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第4章 1.並里松蔵の記録

『私の歩いてきた道』は並里松蔵さん(大正3年~平成3年)の日記をもとに息子の並里和男さんが編集制作し平成4年に非売品として発行されたものである。読んでみると、戦前の貧しかった時代、糸満売りのこと、アギヤーの本土各地への遠征、戦中の苦労、戦後混乱期の生きる知恵、漁民同士の暖かいつながりなど、戦前から本土復帰後を生きた海人の記録が瑞々しく書き表されている。まさに『海人の言伝』にふさわしく記録である。

私の歩いて来た道

並里松蔵

比嘉松蔵の生い立ち

大正3年9月20日 本部村字満名「現在の並里」で仲村渠ウトを母として、祖母の家にて生まれる。

私が3歳の時、母の兄の仲村渠文助の呼び出しで、南大東に渡る。母は私を連れ子して

比嘉半太郎と結婚する。

私が8歳の時、南大東村尋常高等小学校に入学する。

  中略

在学中に学んだ中に、いまだに忘れることができないことが一つだけある。読本の中の(第11課のことである)。

第11課航海の話

 遠洋航海を終えて帰り来たれる太平丸の船長は、一日その町の学校に招かれて航海の話しをなさり、「私も皆さんの頃には、あの運動場で遊んだり、この講堂にて、話を聞いたりしました」と話は続くが、この船長も此の学校の出身者で、母校の思い出、又、航海中「シケ」にあった事等の話をする。

この船長の話を、50年余りも忘れなかった事は、船の大小はあるも、後年になって、私も船長として航海するという、何か目に見えない、運命づけられた因縁みたいなものがあったのではないかと今になって思う。

南大東島より引き上げ

13歳の10月頃と思うが、長年住み慣れた南大東島より家族全員(父、母、私、オトヨ、忠勝、ミッチャンの6名)が沖縄に引き上げる事になった。

父の本籍は、本部町伊豆味であるが、糸満に引き上げて来る。糸満には年老いた祖母が一人で住んでいたからである。

今思えば、一人で貧しく淋しくて、又、どれだけ心細い思いで、その日その日を暮らしていたのではないだろうかと思う。 

私達大勢が、急に来た為、嬉しくもあり、又、家も狭いので心配でもあったと思うが、皆が来たことで、心を許したせいか、私が14歳の時に亡くなった。本当に孫想いの、いいおばあさんであった。

南大東から持ってきた僅かばかりの金は、家の修理や、所帯道具を買ったりして使い果たし、毎日の生活も苦しくなって、父も母も、何とかして働かねばならないと話しているが、見ず知らずの人に仕事させる人もなく、たまりかねて父は本部に行けば、兄弟や親戚もいる事だし本部に行こうと言い出す。しかし、母は本部に行っても、我々大家族の面倒を見てくれる親戚はいないから、自分たちの力で、何とかして生活していかなければならない、と言って聞かない。困り果てて居る所に、幸信兄さんが、自分の水汲みの仕事の得意先を母に世話してくれる事になる。糸満に来てから初めての仕事である。それからは、誰言う事なく「カーラヌ端のオッカー、オッチャン」と呼ばれる様になる。次第次第にオッチャンの仕事も多くなってくる。

 人というものは、たとえ兄弟や友人が、仕事もなく、生活に困っている時に、一時的に金を恵んでやることはできても、自分の仕事を分けてやるという事は、なかなか難しいモノだと思う。金は使えばなくなるが、仕事は、泉のようなものである。やり方によっては、次から次と湧いて来る。

 私達兄弟が、現在の様に成長する事ができたのも、母が水汲みの仕事をしたからである。此れというのも、水汲みの仕事を世話してくれた幸信兄さんのお陰だと、今になってしみじみと思う。

 ことわざに『人を知る事、無限の財産』という事はこの様なことをいうのであろうか。これだけの仕事をしたからと言って、急に生活が楽になる訳ではなく、相変わらず貧しく、糸満に来てから、私は学校にも行けず、具志頭村新城という部落にサトウを造る仕事の手伝いに行かされる。朝は、早くから、夜の10時か11時頃迄働いて、20銭か25銭ぐらいである。その金も皆家族の生活費になり、私はソバ一杯代の小遣いも貰えない。

 祖母が亡くなって間もなく、幸信が生まれる。母は水汲みも出来ず、生活はますます苦しくなってきた。

糸満売りされる

 私が十四歳の年の暮れ、糸満売りにされる事になる。私は、今迄、南大東で育った為、糸満売りされるという意味も知らぬまま、亀上世利という家に連れて行かれる、父と叔父(小カミの父)とこの家の主人の三名で話は、トントン拍子にきまり、私が二十一歳の旧五月十五日迄の丸七年間、百五十円という事で話が決まった。

 十五歳の旧一月二十日頃、追い込み漁の為、四十余名の組合員と一緒に四国の旅に出る。初めて親兄弟と別れての旅である。途中、汽船、汽車に乗ったりして楽しい旅であったが、目的地の高知県幡多郡沖之島という所に着くと、それからというものは、朝は寒いのに四時頃起こされて、見たこともない大きな鍋二つに、芋とオツユを煮る。又、皆が朝食を済ませて、海に出ると、一人で四十名の使った茶碗を洗い、さらに芋を山盛りに積んで煮る。それから、兄貴達の汚れた着物を洗って干す。少しでも洗い方が悪いとたたかれる。一寸の休む事は出来ない。一日中立ちっぱなしである。村の人は「お前は、「いくつになるのか、又、親はいるのか」と優しく聞いてくれる人もいる。そのうちに芋を買いに行ったり、兄貴達の使いで店に行ったりするので土地の人とも知り合いになり、色々とご馳走になることもあった。★

「カシキー上がりは皆船頭ということわざもあるから、あなたも大きくなったら必ず船頭になれるから、辛いでしょうが、頑張るんですよ」と優しく言ってくれるおばあさんもいた。

 その頃は、朝起きる時は、手がかじかむ位寒く、何とも言えないつらさであり、仕事をしながら泣いていると、親切なアッピーが、「お前、一人だけではない皆そんなにして、大きくなってきたのだから、辛抱しなさい」と励ましてくれるが、中には、意地の悪いアッピーもいて、「なちぶさーや、又ん泣ちるうるい、アンマー乳ヌル飲みぶさるあるい」と言って笑う。逃げられるものなら、逃げたいと思うが、そうもいかず、あまりの辛さに母に手紙を書く。今度家に帰ったらどんな仕事もするから、私を売った金は使わずにルシルを払ってくれ」

 字の読めないかなしさ、母はその手紙を小カミの叔父の所へもって行って見せた所、母が心配するといけないと思ってか、「松蔵も元気で頑張っているから何も心配しないでくれ」と書いてあると叔父は言ったそうである。勿論、私を売った金が、あるはずはない。今、考えてみても、あの時、私の苦労も知らずに大嘘をついてくれたと当時は恨みに思ったものである。

その年の六月頃、暖かくなった頃から、ようやく、私も海に連れて行ってもらえるようになる。海に行けば、皆と一緒であり、また、網に入っているいろんな魚を見るのも初めてで、楽しいと思った。それからは、淋しいと思うこともなく、泣くこともなくなった。

例年は、十月頃にしか引き上げないが、〉その年は組合にゴタゴタがあり、旧八月には引き上げる、引き上げる頃になった。私には何のことかは、わからなかったが、沖縄に帰れることが嬉しかった。旧八月十五夜の綱引も糸満で見ることができた。

その年の冬は、糸満でタコ、コブシメ取りをして過ごし、十六才の旧一月二十日頃、二回目の旅立ちとなる。仕事に慣れたせいもあり、前の年のように辛いとは思わなかった。

この年は大漁続きで、〉一人当たりの配当が二百円余りもあったと思うが、私には小遣い一銭もない。その翌年の十七才の旅も別に変った事もなく過ぎた。

十八歳の旅からは、仕事も一人前になり、一人配当をもらえるようになる。主人も喜んでいる。

十九才、二十才とも別に変った事もなく、いよいよ夢に迄見ていた二十一歳の旧五月十五日がきた。親父が、何かいうかと待っていたが、何もいわない。しびれをきらせて、自分より親父に切り出す。「今年の五月で満期になります。主人も了解している事ですので今日迄で満期にさせてもらいます」と話したところ、「ああそうか。もうそんなになったのか」とわざと知らなかったふりをする。こっちからいわなければ、一日でも長く使うつもりであったかも知らないが、組合の人なら誰もが、私が、私が五月十八日で満期になるということは知っている事であり、主人も何ともいえず、今日迄の現金、その他を帳簿に記入し、明日よりの配当は、自分の儲けになると、一言話しがあった。

「松蔵、よく頑張ったね。おめでとう々」と組合の人たちが声をかけてくれる。何ともいえない嬉しさであった。

その年も無事に終わり、十月頃沖縄に帰って来る。生まれて初めて、自分の配当を七十円余り受け取る。家に来てから、主人が私を呼んで、「お前は長年よく頑張ったから網をあげるから、これからも一緒に頑張ってくれないか」といわれた。嬉しかった。

それもそのはず、四十余名いる組合員の中に網を持っているのは七名しかいない。網持ちは一人半分の配当を受け取ることができるのである。主人にしてみれば、外の組合に移っていくのを恐れたのかも知れない。

その年の冬は、糸満でヒカ―小取りをする。仕事にも慣れたし、毎月の配当がある。四国の旅よりも良いと思った。

その年の冬も終り、二十二才の旅支度が始まる。いつもの年とは異なり、今年からは網持ちでもあるし、張り切っているのが自分自身でも感じられる。

例年のように、旧の一月二十日頃、鹿児島行きの船にて行くのがこれまでのやり方であるが、今年は大阪経由で四国に行くことになる。その為、所要日数も少なく費用も安くなる。その年は、四月頃までは四国で漁をしていたが、島根県隠岐より手紙が来る。イサギもたくさんいるし、一度隠岐に来てみないかという内容であった。全員相談の上、行くことにする。

隠岐の漁

昭和十年、五月中頃、島根県隠岐の島に行くことに決まる。初めての漁場でもあり、一応偵察の為加那-アッピーが行くことになる。十日くらいで帰って来る。話によれば、イサギも六月頃より多くなるという話である。沖野漁業組合とも契約を済ませて来たとのことである。

早速、出発することになり、九十トンの船をチャーターして、下関迄行くと隠岐の漁業組合の船が迎えに来ていた。その船に、サバニや荷物を移して、下関を出港する。何昼夜かかったかは覚えていないが、無事に到着する。

着いた所「は、美田という小さな漁村であった。翌日より早速、三組に分かれて漁場の偵察、漁にかかる。四国とは違い、海水も冷たく、又、十ヒロくらいの深さの所より藻が生えているため、初めの内は、魚を追い込むのに苦労する。次第々に藻にも慣れて、六月頃よりイサギも多くなり大漁が続く。

 中略

隠岐にて九月の初め頃迄漁をする。日本海の海は、寒くなるのが早く、これ以上の操業は無理だということで、四国に漁を移すことになった。

四国では沖之島を中心に、幡多郡周辺で漁をして、十月の中頃、沖縄に引き上げる。今年の配当も、まずまずだったと思う。

 

二十三才の旅

旧正月も終り、与論島、国頭、八重山等から組合員も続々と集まり、上り旅の出発の日も近づいて来るが、私は左手の関節炎の為、今年は四国へ行くのをやめて沖縄で仕事をしたいと思って、親父に関節炎の為、今年は行けそうにもないから潜りに誰かを連れて行ってくれないか、とお願いするけど、親父はガンとして聞かない。「君の病気が治るまで待つ」という。その内、出港の日も迫り、親父は仕方なく組合員全員を長男に任せて先に出発させることにする。

それからというものは、毎日の様に私の家と自分の家を行ったり来たりで、落ち着かない様子である。それもそのはず、自分が全員を指揮して行くのであるが初めて息子に任して旅に出した心配な気持ちは痛い程私にはわかる。何時治るかわからない私の為にすまないと思う。

三月の中頃より、ようやく手が動く様になる。この分なら仕事もできると思う様になる。丁度その頃、国頭の安波よりカマー小という十五才くらいの子供が、上世利に売られて来る。その子を見ると、自分が売られてきたことを思い出されてならない。何時しか自分の弟のように面倒を見てやるようになる。

それから何十年か経って、終戦後、漁をしながら安波のカマー小の家を訪ねた事があった。その時、今度の大戦で戦死した事を知らされて、涙がとまらなかったことを忘れることができない。

その頃、上世利の三男も小学校六年を卒業したので、四名で四国に上ることになる。先陣より遅れること二か月の出発である。

中略

沖縄を十二日目に無事、目的地の沖之島に到着する。私たちが船より下りるのを見て、宿屋や顔見知りの人たちが迎えてくれる。沖縄に居るより、当地に滞在するのが長い為、村の人とも親しく、まるで親子同然の関係である。色々と話を聞いてみると、組合の皆は二、三日前にウグリ島に漁場を移したとのことである。

あくる日、我々もウグリ島に渡り、やっと組合の皆と合流することができた。漁の方もまずまずとのことである。

その後は別に変った事もなく十月頃引き揚げることになる。四国の旅も無事終了して糸満に帰って来て、さて、何の仕事をして今年の冬をすごそうかと思案しているところへサンルウアッピーが訪ねてきた。

小笠原に行く

このサンルゥーアッピーという人は、私より五、六才位年上で、四国の旅の頃に非常に世話になった方である。

私が四国より帰る前、私を訪ねて度々足を運んだという事であった。話を聞いてみると、二か月前に小笠原より帰ってきているが、又、近いうちに小笠原に行くけど、今、潜りの達者な人を探しているけど、私に行かないかという話である。

九月頃より追い込み漁をして、三月頃より鰹釣りをするという事である。そこの組の奥さんも、私を見て是非にと、すすめてくれる。二、三度迷いはしたが、思い切っていくことにする。沖縄にいれば、否応なしに来年も四国に連れていかれるのは必至だと思い、家族以外には内緒にしておく。

一週間位後、サンルゥーアッピーと私と他に一人、計三人で行くことになった。マカテ―おばさんと母に荷物を持たせて先に行かせて、私は普段着のまま、友達にも何も告げずに軽便鉄道に乗る。那覇のヤール小旅館にて皆と落ちあう。

午後四時の大阪行きの船に乗る。大阪より汽車にて東京に行き、又、東京より八丈島経由小笠原行きの船に乗る。十一月中旬、小笠原父島美田という町に着く。

組合の詰所に行ってみたら、皆漁に出ていないという。仕方なくそこらあたりをブラブラして時間を過ごして夕方また、行ってみる。丁度漁から帰ってきたところで皆いた。中には私の知った顔も二、三人いた。

サンルゥーアッピーが、私たち二人を親方に紹介してくれた。責任者の方は、大城ジイといって五十才位の非常に優しそうな方であった。

その晩は、私たちの為に歓迎会をしてくれる。組合員は、村の人が半分、沖縄の人が半分、総勢で二十五名くらいである。

村の人は皆んな自分の家から通ってくるが、沖縄の人は、気の合う仲間同士で家を借りて住んでいる。中には世帯持ちの人もいる。私はサンルゥ―アッピーの家に一緒に住む事になった。家主の方は荒木さんという人で六十才位のおじいさんとおばあさんの二人暮らしである。話を聞いてみると八丈島の出身であるという。私が大東島の話をすると、自分の親戚も大東島に居るという事で親近感も湧き、親しくなる。

その翌日より、操業に加わる。漁のやり方は、四国の追い込み漁と変わりはないが、只少し違う点は、四国の場合は、七隻のサバニで行うが、こちらの場合は、二十トンくらいの本船とこの島特有のカヌー三隻で成りたっている。海も澄み切っているし、沖縄の海に良く似ていると思う。四国の海とは天と地の程の差がある。又、魚も多く仕事をしていても楽しい。

四国では、一日に三回か四回網を入れるが、ここでは一回か二回網を入れるだけで、四国の四回分以上とれる。その日は一回の漁で、船に魚が一杯にとなり、午後二時頃には港に帰って来る。とにかく毎日がそのような連続である。

時化の時等は、村の人達の案内で島を見物したり、或いは村の人に招かれてご馳走になることもあった。月日が経つ内に、近所の人や村の人達とも親しくなり、道で会う時でも「比嘉さん、比嘉さん」と声をかけてくれる。小笠原にきて、本当に良かったと思った。

二、三年前迄は、内地からもたくさんの船が来て、大変な景気だったそうである。料亭の裏の三百坪以上もある空地に山と積まれたビールビンを見てもなるほどとうなづける。何しろ当時はビールで足を洗う位の景気だったとのことである。

中略

鰹船に乗る

三月より鰹釣りが始まる為、追い込み漁を解散してカツオ船に乗る。父島には、大正丸と漁栄丸という二隻の鰹船があった。私は漁栄丸に乗り込むことになった。私は鰹釣りは初体験であるが、皆さんが親切に教えてくれる。

朝は、暗い内より海に潜り、餌を獲り、そのまま漁場に向かい、漁場に着くと、乗組員全員で鰹の群れを見つけるために一生懸命になり、群を見つけると、早速、餌をまいて鰹釣りが始まる。鰹が喰い始めたら、それこそ夢中で、人が何をいわれても聞こえない。時には一つの群れで、五十屯級の船を僅か一時間くらいで一杯にさせる事もある。

逆に一日中走っても一匹も釣れない時もある。そんな時は港には帰らず漁場で船を流して海上で泊まることもある。又、魚の多い時は港に魚をおろして、食糧、燃料を積み込むと、あわただしく漁場にとんぼがえりする事もあった。天気が続く限り操業は続行されるので、乗組員の中には食事もとれない人もいる。でも私は若く体力もあり、毎日ぴんぴんしているので、皆からうらやましがられた。

鰹漁にて、大漁の時は、大漁祝、不良の時はゲン直しと言って全員が揃って飲みながら、いろいろの世間話をすることが楽しかった。

当時の船には無線というものはない。出港の時には、何時も伝書鳩を二十羽位乗せている。毎日、船の現在位置、水揚げ量の事等を製造場に知らせる。大量の時などは、水揚げ量何万本、何時入港予定と書いて全部一斉に放すと船の周りを二、三回まわって、一直線に島めがけて飛んでいく。中には途中鷲やタカ等に襲われて帰ってこないのもいるそうである。

ハトが帰ってくると、製造場では、連絡書を見て製造の準備をするので仕事はとても早い。

伝書鳩の事は学校で習った記憶はあるが、実際に体験するのは初めての事であり、本当に重宝な鳥だと思った。

中略

大阪に行く

カツオ漁も終りに近づいた頃、大阪より一通の手紙が届いた。差出人を見ると波里静子となっている。聞いたこともない名前である。何かの間違いではないかと思い中を開けてみると、私の妹であることがわかった。写真も入っている。兄妹とはいえ、会った事もないし、写真を見るのも初めてである。早速私も写真を同封して返事を出す。

暫くして又、その返事が来る、「親戚もいない所での一人旅、大変ではありませんか。元気の良い時は良いですが、もし病気になった時は大変ですから、大阪に来ませんか。大阪には、叔父さんたちも沢山いるし、今なら叔父さんの会社に入ることも出来る」と書いてある。

色々思いあぐねたが、思い切って大阪に行くことにする。もし仕事がなければそのまま沖縄に帰ってもよいと思った。

そのことを鰹船の人たちや友達に話すと、次の追い込み漁の時期までは、一緒に働いてくれといわれる。

大阪に着いたのが、私が二十五歳の十一月の頃であった。大阪市南恩加島の渡口善衝という人を尋ねて行く。この人は本部の母の弟であるが、勿論会う事は初めての方であるが、本部の父からも静ちゃんからも連絡があったという事で快く迎えてくれた。色々と私の事が広がり、金城徳正さん、渡口善正さん等大勢の人が集まってくる。話によれば皆、私の親戚にあたる人だという。

暫く叔父さんの家にやっかいになる内に叔父さんの世話で池畑組という会社に就職することになった。これ迄ずーっと海の仕事ばかりしてきた私には、勝手が違い、どうも馴染めない。その事を話して沖縄に帰りたいと叔父に言うと「外の人がやっている事を君にできないという事があるか」と叱られる。その内仕事にも慣れ、友達も一人、二人とできるようになる。

並里姓になる

その頃、本部の父より一通の戸籍抄本が送られてくる。何ごとかと思って開いてみると、これまでは母の籍に入っていたけど、今度父の籍に移したので、これからは並里姓を名乗りなさいという内容の手紙であった。

二十六年余りも馴れ親しんできた比嘉という姓から並里という姓に変わるという事はなかなか容易なことではなかった。自分の名前を呼ばれても、他人を呼んでいるように感じる事も度々あった。

月日が経つと同時に仕事にも名前にも慣れてきて、気にしなくなった。その年の暮れ、圧延工として大阪製鉄に正式に入社することになった。当時は、大阪製鉄に働いているというだけで外の人達には大変うらやましがられたものである。

結婚(二十六才)

その年の三月頃、妹のしのぶとともに上阪してきたのが妻の春子である。春子とは従妹どうしの間柄で、春子の父と私の母が兄妹の関係にあたる。

小さい頃の事はよく覚えているが、物心ついてから会うのは初めてであった。夫婦というものは不思議なもので、何となく知らない内に一緒になっていた。

その事を両方の親たちに報告すると、両方の親たちより猛反対を受ける。二人とも祝福のない結婚であった。

私が二十七歳の三月三十一日大阪大正区南恩加島二丁目二番地で憲一が生まれる。しかし、その後妻が病気したり、憲一が生まれて間もなく中耳炎で手術をしたりで生まれて初めて金の苦労を味わった。今さらながら私を売った親の苦労がわかったような気がした。

当時、私の給料が六十円位だったと思う。その頃大和製鋼という会社より給料百円出すからうちに来てくれないかと、内々の話があり、四十円も違うなら変わろうとするが会社の方の許可はおりない。そこでゴタゴタが片付く迄妻子を沖縄に帰す事にする。私は家を売って西成区に下宿をしてそこから大和製鋼に通った。その後、大阪製鉄の社員が私を連れ戻そうと大和製鋼に来る。その度毎に事務所から隠れろと緊急指令が来る。その時はやっている仕事もほったらかして一目散に隠れるのである。そんな事が三、四回あって後、ほとんどこなくなった。仕事も落ち着いてきたので、沖縄より妻子を呼び戻すことにした。

西成区梅南通り四-四にて善和と和代が生まれる。丁度その頃、戦争がいよいよ激しくなってきた。そんな時、糸満の母が私に会うため上阪してくる。母ともいろいろ話をして沖縄は戦争とは関係なさそうなので、憲一だけを沖縄に疎開させることにした。

二人を送って後、南洋方面も米軍に占領され、沖縄にも米軍が上陸、日本軍玉砕とニュースを聞き、しまった。まちがえたと思った。丁度その頃私の家も空襲で焼かれてしまう。どうしたらいいかと途方にくれている時、私達の隣に住んでいた人で奥さんという人が。「沖縄も玉砕したし、家も焼かれたし、私達の村に行きましょうか」と言ってくれたので、やけくそ半分でついて行く事にした。連れられて行った所が、石川県の能登半島、鵜島というバスも一日に二回しか通らないという寂しい所である。村の人の話を聞けば、雪の多い所で、冬は一日中雪かき仕事だという。えらい所に来てしまったと思った。が、この鵜島でも沢山の友達ができた。

  中略

その年の八月十五日、終戦となる。長かった戦争もようやく終り、当地におっても何の仕事もなく、大阪に戻ることにした。

大阪に帰る二、三日前の事である。妻は部屋で内職のミシン仕事をしていた。私は縁側でお茶を飲んでいると、六十才位のおばあさんが、私の顔を見ながら入って来る。何とも言わず、私の顔と妻の顔をかわるがわる見ている。何か用事ですかと尋ねるとこちらに琉球人が来ていると聞いて来たんらがノーケという。当地の人は言葉尻にノーケを付ける。

私は「琉球人」という言葉に一瞬頭に血が上るのを感じたが、年寄りの言葉でもあるし、〉気を静めて、「私たちが琉球人ですけど、何か御用ですか」というと、おばあさんは、改めて私たちの顔を見ながら、「日本人と何処も変わって居らんノーケ」という。「おばあさんはどちらからいらしたのですか」と聞くと「鵜飼」から来たという。鵜飼といえば、私達のいる鵜島とは約2里位離れている。弁当持ちで、杖をつきながらテクテク歩いて来たという。お茶をすすめて話を聞くと、自分の息子が戦争の為、沖縄に行っているけど、沖縄という島がどんな島か、それが聞きたくてはるばる歩いて来たという。沖縄という島は能登とは違い、気候も暖かく、食べ物も沢山あるし、又、汽車も通っているから能登のように歩かなくてもいいですよ。と話すと、「まあ、汽車も通っているのノーケ」と驚く。

琉球人に会っても言葉が通じるかどうか心配であったという。このおばあさんは沖縄の人の事をまるで南方の土人か何かの様に思っていたのかと思うと又、頭に来るけど、顔には出さず、妻と顔を見合わせ苦笑いする。暫く話して後、鵜飼いに来るときは立ち寄ってくれと、自分の家の住所と名前を書き残して行く。「遠いのに大変ですね」というと、「何の、何の、歩くのは慣れているからノーケ」と杖をつきながら立ち去って行く。

その頃、私達の住んでいる家の向かいに鍵谷という七十才代で夫婦で二人暮らしをしておられる方がいた。話しを聞いてみると、お子さんは居ないらしい。そのせいか、私達に親切にしてくれる。又、善和と和代を自分の孫のようにして可愛がってくれる。何か変わった物がある時は、その家に呼ばれてご馳走になった。本当にありがたいと思った。そのおばあさんの言葉に、「あなた方は知らない土地に来たからといって何も心配することはない。貴方たちが生まれた時より、この島に貴方達の分といって神様が分けていてあるから」とおしゃっていてくれる。その言葉が今だに忘れることができない。

 中略

大阪より沖縄に帰郷する

 親子四名無事大阪に着く、松三君達の二階を借りて、その年は買い出しをしたりして過ごす。昭和二十一年の八月、大阪より初めての沖縄引き揚げがあり第一番に申し込む。

 松正さんや外の友達からも沖縄行きを思いとどまるよう勧めを受けるが、親兄弟初め、憲一も沖縄に帰してあるため、どうしても沖縄に帰らねばならなかった。

 名古屋港よりLSTにて、沖縄に出港。中城湾に着いたのが、旧の八月十五日だった。南部方面は往来禁止令が出ている為行けず、仕方なく本部に行く事にする。

 本部渡口の役所前に着いたのが、午後の四時頃だったと思うが、その時辺名地の親戚の人たちが迎えに来ていた。荷物も皆で父の家迄運んでくれた。

 その晩は、村の人達も集まり、大阪の親類の事や内地の様子等を矢継ぎ早の質問攻めである。無理もない、あの戦争の為、長い音信不通が続いたためである。民謡の文句ではないが、

「あまやくまのしわ くまやあまのしわ」である。

 本部の父の話しによれば、弟の敏男が伊豆見の山の中で敵の弾に当たり、即死したとのことである。

 本部にいては、糸満の事は、何一つ分からずやきもきする。人づてに拾い車すればいけるという事を聞いて、早速役所より通行証を発行してもらい、糸満に行く事にする。丁度運よく那覇に石油を取りに行くというPTのトラックがあったので、便乗させてもらうことにする。現在のコザ十字路の所迄来ると、トラックが故障してしまって、動かなくなってしまった。仕方なく、妻は和子をおんぶして、私は善和の手を引いて、コザ警察所迄行き事情を説明すると、ある家を紹介してもらう。その人たちも南洋からの引揚者だという事で快く泊めてくれた。

 今でも、その家のそばをバスで通り過ぎる時は、必ず振り返って見る。その明くる朝、警察の世話で、真玉橋迄乗せてもらう。真玉橋で下りたのは良かったが、糸満に行く車はなかなか通らない。ここで一泊しないとならないかなと思っている所に、一台の車が来た。お願いしてみると、子持ちでもあるし、快く乗せてもらう事ができた。糸満ロータリーに着いたのが、あたりも暗くなりかけた七時頃だったと思う。そこより、自分の家があった上之平に向かって歩く。道で人に会っても良く分からない。ようやく上世利の家に入って行くと、皆家にいた。自分の家族の事を聞くと、前長根屋敷に居るという事を初めて聞かされる。僅か三十mくらいの距離であるが、なんとその道のりの遠い事、一里位の遠さに感じられた。

 家の前迄来ると、母が一番初めに飛び出してくる。憲一にお父さんとお母さんだよ。と話しかけるが、知らない人を見るような顔をして近寄って来ない。それもその筈、三才の時に分かれて丸四年間会ってなかったのだから・・・・・。

 母の話しによれば、しのぶ、マスミ、勝、忠仁の四名はこの戦争のため、亡くなったそうである。戦時中は、戦場を逃げまどったり、又、捕虜になったりで散々な苦労を味わったとの事である。これからも色々と苦労の多い事と思うが、これからは親子が皆揃って暮らせる事を想うと沖縄に帰ってきて本当に良かったと思う。その内に和男が生まれる。金は大阪での貯えがあったので何とか暮らしていける。家がない。家を建てようにも、その材料がなく、仕方なく屋根をテントで覆った掘っ建て小屋を造り、そこで暫く生活する。

 当時は仕事らしい仕事もなく、仕方なく漁をして生計をたてようと考えるけど肝心の船がない。そうこうしている内に、嘉手納の比謝橋の側に日本軍の舟艇が沈んでいるのを見て、何とかこの船を払い下げて貰えないかと思い立ち、それからは毎日のように、糸満と玉城村百名にある軍政府・民政府に通った。私も若く二十四才、どこも恐い物もなく、外の人が恐がる軍政府にも、一人で押しかけて談判した事等、今思えば、ぞんぶん無鉄砲な事をした物だと思う。

 そのかいがあって、民政府の偉い方も、私のあまりの熱心さに負けて、「こんな証明書を出したことはないが・・・・」と言って、二隻引き揚げてもよいという証明書を発行してくれた。私が一番初めに嘉手納に行った時は、部落はなかったが、次に行った時は、家が建ち始め、部落民も戻り始めているらしかった。

 コザ警察署に行き、比謝川立ち入りの許可証を貰い、その証明書と舟艇引き上げ許可書ともって嘉手納軍の部隊長に会い、立ち入り許可証を貰う事に成功した。又、部落駐在所にも行き、全証明書を見せてお願いすると、気をつけてやりなさいと逆に励まされる。

 さあ、あとは引き揚げだけである。昭和二十三年旧の三月三日、私の弟達とその外友人達を頼んで、比謝川に行く。川の側にテントを張り、その中で五、六人が寝起きする。一週間位かかってようやく二隻の船を引き揚げることに成功した。

 その時、二人の村人が、私の所に来て、すまないけど、水産組合迄来てくれないか。と言う。何事かと行ってみると、十四、五名位の人達が集まり、「その船は私達組合で引き上げるようになっているけど、貴方方は一体誰の許可を貰って引き揚げているのか」と声高にいわれる。駐在所の巡査も呼ばれたらしく、その時あたふたと入ってくる。組合長という人が、その駐在の巡査に向かって、「この人達は私達が引き揚げようとしている船を勝手に引き上げている。警察の方で何とかしてくれ」と言っている。が、あべこべに、「この人達は、軍政府・民政府の引き上げ許可書並びにコザ本署の許可書、又、嘉手納部隊長の基地立ち入り許可証は皆そろえた上で、引き上げの作業をしているのである。君たちはどこの証明書を持っているのか」と問われて、皆押し黙ってしまった。組合長が、「そんな許可書を持っているとは知らず、忙しい所をわざわざ来てもらって申し訳ありませんでした」と頭を下げてくれた。

 念の為と思って、持参してきた証明書を皆拡げて見せると、「これだけの証明書を揃えるのは、さぞかし大変だったでしょう。私達にはとてもできない」と言って感心している。それからは打ち解けて、お茶をご馳走になって帰って来る。

 その頃、糸満では、炊事に用する薪もない時代であった。元日本軍が家を建てる為に使ったと思われる丸太材が川のあちこちに産卵していたので、それを船に積み込んだ。

 さて、いよいよ出港という事になったが、エンジンもなく、又、曳いてくれる船もない。仕方なく、今迄寝起きに使用していたテント布地を帆に作り替え、どうなる事かとあんじながら糸満に向け出港する事にした。水釜を朝に出てその日の夕方の五時頃糸満港に着くことができた。

 港に集まった人達は、「こんな大きな船をこんな小さな帆で、持って来るなんて、おそろしい人達だ」と言っているのが聞こえた。また、積んでいる丸太材や薪等を見て、売ってくれと申し出る人も現れてくる。

 私達兄弟始め友人達で力を合わせて運んで来た船だったが、エンジンの事で行き詰まり、結局人手に渡すことになった。そして自分はサバニを新しく造って漁をする事にした。

中略

トビイカ釣りで体験した事

昭和二十九年旧九月の事である。その頃は大きな漁船もなく、サバニにガソリンエンジンを取り付けて、又、魚を釣る糸縄もなく、ラッカサンのヒモを一本一本はずしてその糸を適当に合わせて糸縄を造り、釣針は専門の方にお願いして大小の釣針を造ってもらい、それらを使ってフカ、マグロ、カジキ等を釣るのである。

 漁法の中にトビイカ領という漁法がありますが、その量は級の4月頃から始まります。

 初め糸満より南西の方角に二十マイル位沖に出たところで漁は始まります。夕方太陽が西の海に沈む頃、テェランプに火をつけて漁が開始される。周囲が暗くなると海の底から灯りに寄って来るイカを吊り上げるのである。更にそのイカを餌にして、マグロ、フカ、カジキ等の大物を釣り上げる訳である。

 イカは共食いするので、イカ釣り位餌の要らない漁法はない。極端な話、出漁の時、イカ一匹だけを持って出て、船に乗らない位大量に恵まれる時もある。が、しかし、島影も見えなくなるほど遠くに出るので、この漁法ほど危険の伴う漁法はない。漁をしている途中で、天気が急変する時は、それこそ命からがら一番近い港に逃げ込むのである。力及ばず、帰らぬ人となった人も沢山いる。その為、トビイカ漁をする人は少ない。そのトビイカ漁も年中はできない。旧の四、五月から始まり、月によって漁場を移動していく。四、五月は慶良間沖、六、七月は、港川沖、八、九月頃は津堅、浮原沖と次第ゞに東の方に移動して行き、最後は安波沖で沖縄のトビイカ漁は終わるのであるが、糸満から浮原沖迄行く舟は、ほんの二、三隻しかない。何故そんなに少ないかといえば、糸満からは漁場も遠く、又、その頃からミーニシが吹き始め、天気の変わりも早く、月の半分も漁はできないためである。

 さて、旧の九月の中頃の事である。その日は、サーイス、タチ、ミーヌハの風で波もなく静かな良い天気だった。午後三時頃、舟子のカミースーと出港した。途中多くのイカ釣り舟に出会う。午後六時頃漁場に到着。テェーランプに火をつけてイカ釣りを始める。型も大きいものが面白いように釣れる。二人とも話を交わす暇もなく釣っていると、午前一時頃、今迄上天気だった空に雨雲が持ち上がり、小雨がポツリポツリと落ち始めた。私はイカ釣りの手を止めて、立ち上がり、四方の空を見ながら、カミースーに、「今夜の天気はおかしいから、早くイカリをあげて引きあげよう」と言ったら、カミースーは怪訝そうな顔で立ち上がった。その時である。私の縄にマグロが喰いついた。気持ちは一刻でも早く島近くに舟を持って行かなければと思いながら、そのマグロが大物でなかなか上がらない。二人がかりで一時間位かかってようやくの事で釣り上げた。あたりを見ると先程迄の静かだった海面とは異なり、風はウシ、トラに変わり、十米以上吹きまくり、海面も真白になり、舟もさながら木の葉のようになる。見る見るうちに波も大きくうねり始めた。

 漁師仲間より、一番恐れられている九ン月フチャギである。二人は相談して浜比嘉に舟を向けるより、風下の糸満に向けて走る方がいいと話が決まり、イカリを上げて、エンジンを半速にして、船は進み始めた。星あかりもなく、沖縄の島影も見えない。ただ、羅針盤と風向きを頼りに久高島沖を目指して舟は走っていた。

 その時である。私達の四、五百米前方に丸型の大きな水銀灯のような青白い光が一個あがっているのに気づいた。悪天の為、ホワイトビーチに入港できない大きな船が沖で流しているものと、あまり気にもとめず、自分の舟の舵を握るのが精一杯であった。5分か十分もあれば、その舟の横を通り過ぎる事ができると思うが走っても走っても不思議なことにその灯りは近ずきもせず、遠くもならない。

 々方向に併進しているのだなと思い、気にもとめず、あれから一時間余りそのまま同じ距離で、同じ方向に進んでいる。時間からしてそろそろ久高島の沖合いに近ずいた頃と思って二人共お互いに励まし合いながらも、やたらに煙草の漁が増える。自分自身に落ちつけ」と言い聞かせる。その時突然舟もろとも大波を被る、舟の半分位水が入り、エンジンも止まってしまった。これが最期かと思いながら、二人共夢中で水を汲みだし、エンジンを掛けようとするが中々かからない。後ろの波を見ようと頭を上げると、百米と離れていない所にこちらに向かって来る船の後悔ランプが見えるではないか。しまった!まごまごしているとあの船に真っ二つにされると、夢中でエンジンのひもを引っ張った所、運よくエンジンがかかり、舟は前進し始めた。ああ、よかったと思い、後ろを振り返ると、近く迄来ている筈の航海ランプもエンジン音も聞こえない。不思議に思いながら先程迄一緒に走っていた船の明かりを捜すけど、どこにも見えない。時間にして十分か十五分しかたっていないのにと思いながら二人とも不思議に思う。

 波を被ったり、溜まった海水を汲みだしながら走ったであろうか、大分波も静かになった気がする。

 なるべく島を見てからと思い、今迄のSSWよりSWに進路を変える。しばらく走った頃、知念の山が黒々とはっきり見えたので「よかった、よかった」と二人とも微笑みを浮かべ、初めて口をきいた。その時、はるか前方で、急に火の光が上がるのが見えた。今さきの船の光ではないかと二人話し合いながら船の速度を全速にして、喜屋武岬に向けて走る。よくよく見ると何か油でも燃やしている様な赤い火に見えてくる。近くなるにつれ、船火事であることがはっきりと見てとれた。ところは摩文仁の沖合である。近づいてみると、五屯位の船が丸焼けになっている。乗り組員が近くで泳いでいるのではないかと、二人で大声をあげて三、四回と船の周りを回ってみるが返事はない。あきらめて糸満に向かう。糸満の港に入る時、〉東の空が白々と明けて来る頃だった。

 二人共ずぶ濡れだったので、舟をつなぎ、家に帰ってから港に引きか返してみると,沢山の人が心配そうに集まっている。話によればあと三隻かえっていないという。早速大きな船に若い連中を四、五名づつ乗せて捜索に向かう。その舟の中で昨夜の事を話しすると、年配方が、津堅島沖には、遭難した船の魂が時々姿をあらわすという事であった。

 昼あとになってわかったことだが、船火事を起こした船は、ガソリンタンクに火がついて手の施しようがなく、外の船に乗り移り、無事に帰って来たとのことである。寄港が遅れていた船も次々と帰って来る。

 私達始め、皆無事に港に帰り着く事ができて、本当に嬉しく思う。それにしても海の怖さを改めて思い知らされた感じがする。

★尖閣列島にマチ釣りに行った時の事

 昭和三十年の事である。その頃、米軍の上陸用舟艇を払い下げてもらい、材料もない為、そこらへんにある物で、ツギハギにデッキと生けすを作り、鰹船として使用していた、船その物が戦争用に作られている為、表の広さが九尺位あるので風上に向かって走る時は、ドンドンと波が叩くので、眠ることも出来ない。機械はグラマリン二機が据え付けられているが、天気の悪い時には、船足が遅く、せっかくの鰹の群れを見つけても、群に追いつくことができす、空船のまま帰港する事もたまたまあった。漁船には不向きであるという事は、分かってはいるが、他に適当な船もなく二、三年くらいはそのまま、使用していたが、カツオ漁も年中は出来ず、冬になれば港につないでおくだけである。

 その舟を使って、尖閣列島にマチ釣りに行ったらどうかと思いつき、話をした所、俺も俺もと、十名位が集まり、早速、久米島具志川の園辺様の舟艇を借りる事に決まり、船長外船員五名が、早速糸満に回航してきた。サバニ二隻、燃料、水等の積み込みも早々と終り出港の運びとなるが、当時は、燃料も配給制の為久米島に立ち寄り不足分の燃料を調達して尖閣列島に向けて出港する。初めての航海でもあり、先ずは宮古島に寄港してから尖閣列島に行く事に話が決まる。

 冬の天気とも思えない程、波もないおだやかな出港でした。このままいけば翌日の朝には、宮古島に到着することができると思う。その明くる朝、もう到着していてもおかしくない時間なのに、島影さえ見えない。船長に「宮古到着の時間はとっくに過ぎているが、どうしたのですか」と聞いた所、「私は今迄、羅針盤を使っての航海はしたことがないので分からない」えらい船長もあったものだとあきれる。「では、この羅針盤の時差を確かめたことがありますか」と尋ねると、「この羅針盤は水連よりの配給された新品だから狂うことはないだろう」という、

 幸い私はサバニ用に用いている小さな羅針盤を所持していたので、鉄分のない一番表の方に行き、本船の羅針盤と私の羅針盤を比べて時差を出してみたら、約二十度位の時差があることがわかった。その時差で海図に時間とコースを引いてみると、宮古島の約八十マイル位東に来ていることがわかり、全員を集めて事のしだいを話すと、ヌンルルンチのおじやオランウンメという頑固な人たちは「宮古という所はそんな近い所ではない。そのまま走りなさい」と言って私のいう事に耳を貸そうともしない。時間からして朝の八時頃には宮古島についていてもおかしくない。と説明しても聞かない。そのまま問答を繰り返している内に十二時になるが、やはり島影は見えない。頑固な親父達もソワソワし始めた。「今迄ならコースを変えると明るい内に宮古に付けるかも知れないが、あと一、二時間もそのまま走ると宮古島へのコースを捜すことも難しくなると思う」と言った所、真栄城さんという人が、「三十時間余り走っても宮古につかないという事はどう考えてもおかしい。時差の関係かもしれない。この際、並里さんのいう事聞いてコースを変えてみたら」と言ったところ、今迄ガンとして聞かなかった人も、では並里さんに任そうという事に決まり、早速現在位置と思われる所より新たにコースを引いてみると、那覇より久米島位の距離は離れている。今迄の南西より直角に北西に変針して走る。コースを変えてから4時間余り、太陽がやがて西の海に落ちちそうになった時に宮古島がかすかに見え初めた。その時の嬉しかった事。今迄ガンとして聞かなかった頑固な親父達も「羅針盤も分からない私たちが悪かった」とあやまって来る。無事に宮古島を見ることができて本当に良かったと思うのも束の間、左舷エンジンのクラッチのビヤリングが焼けて片エンジンは停止してしまった。一難去って、又一難とはこんなことを言うのかも知れない。右舷のエンジンだけでは、中々前には進まず、宮古島に着いたのが、夜も十時を過ぎた頃だった。初めての港でもあるしひとまず島影にイカリを下ろした。

 翌朝、又難しい会議が始まった。片エンジンでは尖閣列島に行くことも出来ず,かと言って沖縄に引き返すことも出来ない。どうした物かと話し合っていると、一人の乗り組員が、「平良港まで行けばアメリカ軍がいるからお願いして部品を分けて貰うことはできないかな」という。皆もそれよりいい考えはないという事で早速平良港に向けて片エンジンだけでのろのろと出港する。その時丁度八重山より平良港に向かう軍のF・Sが通った。そのF・Sに旗で合図すると、近づいて止まってくれた。事情を話し、平良港迄の曳航をお願いすると快く曳航してくれた。

 その頃は、沖縄政府、宮古群島政府、八重山群島政府と別れていたので、どうなる事かと半心は心配していたが、私達が入港する頃には既にF・Sから無線で連絡がなされていたとみえて引き船も待機していた。それと同時に、水上警察署の係官も乗船して色々と取り調べを受ける。漁船に間違いないとわかると態度が変わり、親切にしてくれた。その頃、台湾、中国等の闇船が横行しているので取り締まりが厳しくなっているんだと係官の方が話してくれた。沖縄の船でこの平良港まで遠出してきたのは貴方方が初めてですと言われた。

  中略

 停泊中、皆一銭のお金も持っていなかったが、煙草だけは十分に持っていたので風呂に入るにも、酒や食糧を手にいれるにも皆煙草で交換することができた。当時、宮古にはアメリカさんは多くはなく、当然アメリカ物資も少ない。沖縄から持って行ったラッキー煙草は大もてで、風呂屋の小母さんなどは、私達が行くと大歓迎してくれた。この宮古島停泊中で忘れられない事は、その停泊中のある日の出来事である。伊良部島からの渡しの船が、私達の船のすぐ隣に入って来た。大勢の客は忙しそうに平良市の街の方に下りて行くが、若い女性が立ち止まり私たちの乗組員と何事か暫く話をしていたが、島に下りもしないで今、乗って来た渡し船で又部落の方へ引き返していく。不思議に思ってどうしたのかと、その乗組員に尋ねてみると、次のような事を話してくれた。

 昨年、喜界島に居る時、宮古の人達が十四名位船が故障して喜界島沖合を漂流しているのを助けて着物や食べ物などを与えて、糸満の人達が長い間面倒を見てあげたとのことである。その時の仲間が3人もこの船に乗り組んでいるという事である。

 その日の午後3時頃、又も伊良部港からの渡し船がついた。私達は機械の故障の修理をしながら、今日は何時もと違い、伊良部からの客がやけに多いなと話していると渡し船から下りた二十名余りの人はゾロゾロと私達の船の前に集まり、二、三人の男が船に乗り込んできた。例の乗組員と二言三言話をしてから、一人の年長者の方が、私の所に来て、ていねいに頭を下げ挨拶をした。私も甲板に上がって行くと、手に重箱や酒を下げて男たちが乗り込んでくる。三名の乗組員と握手をしたり肩を抱き合ったりして思い出話等をしている。

「是非伊良部島迄船をまわして正月を共に過ごして下さい。」との話を聞いて、初めて正月の買い物の為、伊良部の人達が平良市に来ていることを知った訳である。私達糸満では旧正を祝うので、新正の事は思ってもいなかったからである。

 中略

 情けは人の為ならずということわざがあるが、情けは人のためにあるのは間違いないかと思う。困っている人を助けてあげれば、自分が困った時、思わぬ所から助け船が来るものである。あんな遠い喜界島での出来事が、今、自分達の上に恵みとなってありつけるとは、思ってもみなかったと乗組員一同皆ニコニコ顔で話している。

 その翌日、機械の修理も終り、いよいよ出港する事に決まり、水上署、水産部に御礼の方々挨拶に伺うと、組合長が出て来られて、皆さま方の気持ちは良く分かるが、今日は新の大晦日であり、旅から帰って来る日でもあり、今晩迄はここにとどまって明日出港して下さいと言われる。成るほど自分たちは旅の空で、一日も早く家に帰り度いのであるが、正月には変わりはないと思い、一日だけ出港を見合わす事にした。乗組員にその事を話しすると皆、納得してくれた。

 自分たちも今年の苦労と油の匂いを風呂に行って洗い流して来るかと言って各自から煙草を二個づつ集め、五個を風呂屋の小母さんに差し上げて、残りの煙草で酒に替えて船に戻って来ると、宮古水産部から使いの人が来て、事務所に酒・肴の用意をしてあるから全員いらしてくれとの事である。では遠慮なくご馳走になるかと言って、今、さっき煙草と替えて来たばかりの酒もぶら下げて十六名の乗組員がズラズラと使いの方と一緒に事務所に行くと、組合長始め皆さんが喜んで迎えてくれた。「貴方達の乗組員が、宮古の人を助けて下さったと言う話を聞きました。これというのも何かの御縁である。今後ともよろしく」と組合長より御礼を言われる。色々と御馳走になり、組合長や他の人達もまだ時間も早いのに止めるけど、明朝出港の為、早めに引き上げる。

 一夜明ければ、一九五一年の正月元旦である。気持ちも晴れ晴れと水上署、水産部の方々の見送る中を十時頃、一週間ぶりに出港する。羅針盤の時差もはっきりと分かり、今度の航海は別に変った事もなく予定通り目的地の尖閣列島に到着する。

 全員張り切って釣りを始める。天気も良く、二日間でマチを約三千斤位釣る。後二、三日位は釣り度いが、水もなく沖縄に向けて出港することにした。長い航海の為、飲料水も底をつき、出港準備の間、手分けして水を取る事にしたが、肝心の水を入れる容器がない。一人の乗組員が石油のドラム缶二本をサバニに積み込んで、三名で無人島に水取りに行く。船乗りというものはいざとなれば何をするか分からない。今先汲んできた石油ドラム缶の水であるが、どんなにして使うのかと思っているがその乗組員が五尺位のホースを持ってきて、ドラム缶の半分位迄入れて口で吸い出し、水をバケツに取ってその水で飯をたいたり、おつゆを煮たりしている。その男に油臭くて食べられるのかと聞くと、油は上に浮いているから真ん中から取れば余り油の匂いはしない。私達も南方で石油ドラム缶に水を貯めて使ったことがある。という、言われてみればなる程道理であると思った。さて、その水で炊いた夕食が出来た。どんな味がするかと思いながら一口食べてみると、毎日船の中で油の匂いをかいでいるせいか余り気にしないで食べることができる。でもお茶だけはどうしても飲めない。仕方なくやかんに沸かして飲む。丸二昼夜は石油の匂いのする飯を食べながら無事糸満港に入港する。人のうわさは早いもので、私達が機械故障の為、宮古にいるという事は糸満中の人が皆知っていることであるので、私達が三千斤もマチを釣って来たと話しても誰も本気にしてくれない。魚を見て始めて信用してもらうありさまである。

 航海も長く三千斤くらいでは、経費も足りないと思っていたが、運よく魚が高く売れて少しずつながら配当もあった。

 その後、二航海は尖閣列島と糸満を往復したが、水が長持ちしない事と、燃料代が多くかかるという理由で、舟艇を返して本部より金城丸という十五屯位の木船を借りて来る。

ねずみの芋を盗んで食べた話

 今迄、苦しかったばかりを描いて来ましたが、海上生活は、毎日が苦しい事ばかりではない。陸上生活では味わう事の出来ない楽しい事や変わった事に出会う事もある、

 ある老船長が話していた。船乗りと妊産婦は同じ様な者である。生みの苦しみを味わっている時は、もう二度とこのような苦しみを味わいたくないと思うけど子供を産んでしまった後はその痛みをケロッと忘れて、二度、三度と同じ事を繰り返している。船乗りも同じことで、時化に合い死ぬ様な目に合うと、もう決して船に乗るまいと思う。考えてみれば人間という者は、男も女も同じ宿命、苦しみを背負わされているモノだと思う。

 金城丸で八重山の漁場に行った時の話しである。その頃迄は米も配給の為、積込むのに限度があり、用心の為、芋を五百斤位積んで西表沖にある中の神島という無人島で釣りを始めるが天気も悪くさっぱり釣果は上がらない。仕方なく尖閣列島に漁場を移すことになった。石垣港で積み込んだ芋も四、五日で食べてしまい、あとは米を食べている。

 私たちが釣りをしている時、乗組員の一人が、「誰がこんな所に芋を隠しておいたのか」と突拍子もなく叫ぶ声が聞こえた。乗組員が入れかわり立ちかわり覗いてみるとなる程、水タンクと壁の間にぎっしりと芋が詰め込んである。手が入らない為、板切れでかき出してみるとバケツ一杯ほどあった。ねずみが一生懸命運び込んだと思うが、長い間米ばかりたべているのであのさつま芋の味が恋しい頃であった。

 コック長が皮をきれいにむき、昼食用にと切ってあった刺身を皆入れてウムワカシーをこしらえてある。その芋を積み込んでから約二週間余りも経つので、やわらかく又甘みも増して、そのおいしかったことは何にもたとえようがない。食べながら、乗組員達は、「長い間船に乗っているが、ねずみのたくわえた芋を盗んで食べる事は初めてである」と笑いならが食べている。その味がおいしかった事は今だに忘れることができない。

今迄の回想

 その後、独学して船長の免状も鳥、サバニは人に売り、漁船の船長、アメリカンカンパニーのボーリング船の船長と約三十年間に渡り船長として船に乗って来たが、祖国復帰と共に会社は解散、糸満の知人からも船長としてうちの船に乗ってくれないかとの話もあるが、体力も落ちてきている事でもあるし、ここらで、陸の仕事に切り換えた方がいいと判断して、現在のガードマンの仕事に入る。

ガードマンの仕事をして早、十年、振り返ってみると、昨日、今日の様にも思える。その後の事は毎日の日記にかいてあるので、改めて書くことはないと思う。

 この様に、物心ついてから、六十九年間、振り返って見ると、よきにつけ、悪しきにつけ、いろんなことがあったが、この長い間、大きな病気もしないで来たのは、神のご加護の賜物と感謝に堪えない。

忘れ得ぬ言葉

 私がこの年になる迄、何千、いや何万という人達と接したと思うが、古い写真を取り出して見ても、顔も名前も忘れてしまった人が多い。その中に忘れる事の出来ないことがある。

 言葉というものは不思議なもので、その言い方一つで人の心を傷つけたり、或いはその人の進路に大きな影響を及ぼす事もある。

 四国のおばあさんが言った「カシキ上がりは皆船頭」という言葉や、石川県能登の鍵谷のおばあさんの言った言葉は、私の人生に大きな影響を与えてくれた言葉である。

 私が生きてきた中で、その人の為に良い影響を与えたことがあったであろうか。「太く、短く、細く、長く」という言葉があるが、同じ船で一つの釜の飯食べ同じ町に住んでいても名前すら忘れ勝ちになる。こういう人達の事を太く短い関係というのであろう。

 中略

日記から 平成三年六月三十日(晴れ)

 今朝は六時頃目が覚める。今日は手術の日の為、水も飲めず食事をとることも出来ない。風呂に入る。午前八時より点滴が始まる。八時半頃、カメ子姉妹とトシ子姉妹が見舞いに来る。又喬司先生も来てくださりお祈りをして帰る。又、秋ちゃん、ミッチャン、清秀君もお見舞いに来る。いよいよ手術の時間になる。

あとがき

 父は独学して船長として活躍してきた。その船長時代に航海日誌をつける習慣が身に付き、舟を降りて陸の仕事に変わってからも大学ノートに日記を書き続け、手術台に上るその時迄日記を書いていた。

 独学ながらその蓄積があったればこそこの本を残すことができたのではないかと思う。わが父ながら頭の下がる思いがする。

 印刷の仕事に関係している者として、いつか一冊の本にまとめてみたいと思っていたが、こんなにも早く実現できるとは思ってもみなかった。

 天国の父もよくやったとほめてくれるかな?

 大きな肩の荷が下りた様な気がする