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第4章 2.金城カネの記録

本稿は、糸満出身の金城カネさんが個人出版した『私の人生』から要所を転載したものである。戦後の沖縄の経済復興の陰には糸満出身の女性たちの活躍があった。金城カネさんもそのうちのお一人で、金城商事という会社を立ち上げた。同社は今日も浦添市の西洲で商事会社として沖縄の経済界の一翼を担っている。カネさんの記録を読むと、戦前からの苦難の歴史を乗り越えてきたことが如実に語られている。その努力の裏には絶えず先祖に感謝し、誠に生きる事を『言づて』としている。スーツを着た男性

自動的に生成された説明金城カネさん明治44年12月30日~〇年実家の屋号:仲浜新地

私の戦後史

金城 カネ

1,家族全員の猛反対で進学断念

終戦直後にわずか一坪でスタートした商売を、現在では年商五十七億円の総合食料卸問屋に発展させた。「女は戦ぬさちばい」という古語の通りに生きてきたから、これまでこれたのだろう。だが、私は明治生まれの女。本当は男の前に出たくなかった。料理や裁縫の代わりに、商売を仕込まれた糸満女の宿命だったと思っている。「人に頼るな」という父の独立独歩の教訓が、私のルーツである。

 私は明治四十四年十二月三十日、糸満市字糸満で父上原亀、母トクの三女として生まれた。三男四女の七人兄弟である。

 父は、糸満の網元。“糸満売り”された雇い子二十人を集めて、自分で組を作っていた。多学納税者に許されていた衆議院選挙の札入れができたから、漁ではかなりの収入を得ていたようだ。無学ではあったが、人々の信望は厚かった。母はウミンチュ(漁師)の妻らしく父のとるサメのヒレを乾物にして、台湾へ出していた。

 私が七歳の時、母が世界感冒にかかって死んでしまった。それからは、髪は自分で結うし、着物も洗う。自分の事はだれの手も借りなかった。ところが親類の人は「シラミはいないか」と世話を焼いて、「かわいそう」と涙を流す。負けず嫌いの私は、哀れな目で見られるのがたまらなくいやだった。

 もうずいぶん昔のことだから、母の死の悲しみさえ春のかげろうのようにおぼろげだ。優しかったという母の記憶もない。ただ父のしつけだけを覚えている。自分が母親になって見て始めてその寂しさを知った。

 大正七年に糸満尋常高等小学校へ入学した。成績は誰にも負けなかった。また、一度も欠席したことはなく、いつも皆勤賞をもらっていた。すべて女学校進学の夢を実らすための努力だったのである。

 高等科一年の十五歳の時、親に内緒で首里女子工芸学校を受験した。見事に合格した。ところが家族みんなが猛反対する。長兄は「雇い子三人分の儲けがかかる」といやがる。おばあさんたちは「漁師の娘に学問はいらん」と言うし、父は父で、戸主である長兄にさからわない。男尊女卑思想から、一般的に女の学問の必要を認めなかったのである。

 小学校の金城光典教頭や名嘉地和先生がわざわざ家まで頼んでくれたがむだだった。やけっぱちになった私は、家の中に閉じ込もった。高等二年に進むのを辞め、家の仕事も一切手伝わない。ことごとく反抗的な態度を取った。すると父は「どういうつもりか」としかる。そして五男だった自分が一本のかい(櫂)を親からもらって、財産を築いたんだ。お前も人に頼るような生き方はするなと、懇々と諭すのだった。

 これが私の試練であり、自立の始まりであった。また、これはまさに運命の皮肉というべきか。もし進学していたら私の人生も大きく変わり、平凡な女の道をたどっていたかもしれない。

 私は元来血の気が多く、生まれつき物ごとを楽観する人間である。すなわち思索的タイプではなく、考えた事を行動に移す方。自分の不幸を嘆いても始まらないと、早速父の仕事を手伝った。雇い子の面倒を見たり、魚代の集金、事務など父の目の届かない所の監督を任せられた。

 ところで“糸満売り”の話しは、昔の糸満を象徴するかのようにあまりにも有名である。男の子がいう事を聞かなければ、大人は「糸満に売るぞ」と言っていさめた。泣く子も黙らすほどの恐ろしいものだったのである。実際はどうだったのか。そこで買った側、つまりヤトイグヮーから見た糸満売りの話をしてみたい。

 網元は多くの漁師を抱えれば、それだけ収入を上げることができた。それで農村の子を引き取り、漁師に育てたのである。だが必ずしも金に飽かせて買ったのではない。親の方から売りに来た例の方がずっと多かった。それは総て貧困のためである。売られたからと言って、だれも親を怨む者はいなかった。また恥じる者もいない。貧しさを良く知っていたからなのであろう。

 父は新しい雇い子を迎える時には、その子の親と一緒に食事をさせ、芝居か映画を見せて親子の別れをさせた。人の情に深い父は、契約金を渡すだけの高慢なやり方は決してしなかった。そして、一つ屋根の下で暮らした。だから総勢三十人近くの大世帯。活気のある騒々しい家だった。食事も家族と同じだし、食べるのも一緒。父は「漁師は健康が第一だ」と言って、腹いっぱい食べない子は体の具合が悪いからだと、漁には出さなかった。実際私も、体の弱い子やカイセンの子の面倒をみるのに大変だった。

 雇い子たちの食事の支度や洗濯は、女中か家の女がやった。だが天気が悪ければ、畑へも出た。雨が降れば、網の繕いやマメの皮むき、ウムクジ作り・・・・・。次から次へと仕事を与えた。遊びたい年ごろの彼らには、確かに辛かったと思う。

 契約金のほかに配当金も出した。とった魚や貝の量に対して、いくらと決めるのである。だから働けば働くほど得だと、一生懸命漁に取り組む。漁師が月給制だったらとてももつものではない。この配当金は正月、ハーリー、盆の三回にまとめて払い、一日思いっきり遊ばせた。

 十数年前にある老夫人が私にこう話した。「恩ある糸満に足を向けては寝られない。息子の契約金で借金を払うことができたし、満期後は南洋で漁をして畑や家も買えた。一人前の漁師に育ててくれたおかげです」と。

2.魚商いの道に進む

 私が初めて魚を売り歩いたのは、十五歳の時。友人の赤嶺チルーも進学を断念した一人。同病相哀れむで、いつも一緒に売り歩いた。友達のはかま姿が見えれば、みすぼらしい恰好が恥ずかしく急いで隠れた。進学はあきらめたものの、劣等意識は何時までも消えなかった。

 十八歳のころになると、父の片腕となって働くようになっていた。なにしろ長兄夫婦は八重山に行き、次兄は兵隊に。姉二人も結婚して家を出た。いやがうえにも、私にはいろんな仕事がおおいかぶさってきたのである。そしてこれを起点に徹底的に商売を仕込まれたのだった。

 「人を使おうと思うなら、その人たちに使われる覚悟でやらなければならない」というのが、父の口癖。この教訓は、今も変わらず私の中にしっかりと根づいた心情となっている。

 私はもともと身なりには、無関心なほう。商売に身を入れるとますます構わなくなった。顔や手足は日に焼けて黒いし、前歯も三本抜けている。かの有名な“糸満美人”とは、無縁の娘だった。

 私の一番大きな仕事は、魚の値段を決めることである。現在のようにセリで値段を決めるのではなく、町へ売りに行ってそこで初めて決まるという全く反対のやり方。これは船主の妻か姉妹である女が、実権を握っていた。

 まず漁師たちが取って来た魚は、その網元の娘である私の手に渡され、販売を任せられる。私はそれを行商する人に卸す。この時には、値段は決めない。行商人は売りに行った町で、前日の相場や前に売りに来た人の値段をみて、自分の魚の値を決めるのである。それからもうけを差し引いた卸代金を、行商人に請求にいくのだった。

 たまに私が高く売れたから行商人ももうけたはずだと、高い卸し代を請求する時があった。しかし、行商人はもうけるどころか卸代金の売り上げさえない。それでも立て替えてでも、私の言う通りに支払う。そうしなければ、翌日からは魚を卸してもらえないからである。船主というのは、絶対に損をしないようになっていたのだった。だが損をさせたら次は値段を安く立ててもうけさせ、決して行商人を泣かせるようなことはしなかった。

 「夫がとってきた魚を妻が買い、妻はそれを売りさばいてもうけは自分のワタクサー(へそくり)にする」という説が、糸満の特徴のように言われている。だが必ずしも、夫の漁獲物だけを売るとは限らない。魚売りは一つの商売となっていたから、夫のもの売るし他の船のものも売る。また魚を卸す方だって、別に血縁だろうとなかろうと関係ない。責任を持って売ってくれれば、だれでもよかった。

 ワタクサーだって、めいめいの考え。女の知恵でへそくる人もいただろう。しかし、夫と妻の財産が別と考えるのは、どうかと思う。夫婦がそれぞれ海を糧に働き、一家を支えていたのである。

 糸満の男が海と戦うように、女の魚売りもなま易しいものではなかった。昔は「なま物売りをこなした人は、何の商売でも成功する」と言われたほどである。鮮魚だけで、一刻も早く売りさばかねばならない。だが自分で値をつけるので、そこに駆け引きが生じた。

 例えば「前上がり」。だれも売りに来ないだろうと、高く売ってもうけた。その後にどっと売り子が押しかけ、値が下がった時のことをいう。また逆に後から売りに来るだろうと、客がなかなか買ってくれない。しかし、結局現れず、高く売れるのが「後上がり」。この状況をどうつかむかで、もうけもするし損もした。

 その日の天気にも左右された。天気の良し悪しによって魚のとれ具合が違うので、売る方にも響く。私の場合は、父の言う通りにした。父は月を見るだけで、翌日の天気を的中できた人。あわてて売る必要はないとか、次から次に船が入ってくるという指示で、急いで町へ行ったり売り控えたりした。

 このようにちょっとやそっとで、できる商売ではない。だから上手下手がとても目立った。転んだり起きたりする人も多かった。それに比べ、今の魚売りは素人でもできる。昔の人の商売が、本当の商売と言えるだろう。

 しかし、どんな駆け引きがうまくても、信用がなければ続くものではなかった。信用つまり「誠意」が、魚売りの女の条件であった。

 魚を買うのは、一般家庭だけではない。さしみ屋、かまぼこ屋、チキアギ屋、辻の仕出し屋もいる。このワザサー(業者)たちの所に、豊漁の時だけ持って行っても、買ってはくれない。台風で魚がない時にも、何とか間に合わせてやる誠意があってこそ毎日の商売ができた。私たち卸すほうもそうである。豊漁の時は儲けが薄いから仕事を休む人には、魚が少なくてよく売れる時には卸さなかった。

 これは、今の私の会社も同じこと。普段は何も買わないが、品物が値上がりするという声を聞くと、売ってくれと金を積む。だが私は得意先にしか卸さない。昔も今も誠意で商売に徹すれば。必ず報いられるときが来ると思っている。

3.サイパンで鰹節工場造る

私が十九歳に結婚するまで、ずっと父の手伝いが続いた。男が海でうまく働けるのも、女が準備万端、陸の仕事を整えるからだった。それで私は、船の寄港する所どこにでもついて回った。

 漁場は季節によって違うし、港も牧港、港川、読谷と変わる。大体一つの漁場に一、二カ月はいたので宿屋を取るのが私の役目だった。ここでの食事の支度は二人の雇い子にさせたが、あれこれ指示するのはわたし。また、肉や魚、米を調達するために、魚の行商もした。

 魚が入れば糸満と同じようにその土地の人に卸し、集金に回る。各漁港では、私は既に顔なじみになっていた。

 夏は魚が少なくなるので、那覇の向かいにある神山島へサザエをとりに行った。渡地にあった糸満宿屋を根城にして、島で雇い子二十人を寝泊まりさせ貝をとる。船いっぱいになったら宿屋へ運び、代わりに食糧を積んで行く。四月から九月まで、ずっとこの仕事が続いた。

 サザエを勝手にとることは許されなかった。島の持ち主である渡嘉敷村に金を払い、その権利を買うのである。父一人では小さな仕事しかできないので、三人で組を作っていた。

 雇い子には、サザエ十斤につき二円の花代をあげた。深い海に潜るだけに配当金も多かったのである。話はちょっとそれるが、このサザエとりが雇い子を鍛える時。農業は年を取ってからでもできるが、漁師はものおじしない十五、六歳のワンパク時代にしか教えられなかった。

 さてとったサザエの処分は私たち女の出番。糸満宿屋でシンメーナービにゆで、貝殻と身に分ける。ボタンになる貝殻は、「仲尾」とか「くるがん」という海産物問屋の寄留商人が買いに来た。身の方は串に五個ずつ刺し、一本二銭で売った。

 夜になったら宿屋の姐さんと、花の辻町へこの串刺しを売りに行く。「サザエ コーミソーリー」と呼ぶと、芭蕉の着物に神をきれいに結った尾類(じゅり)が買ってくれる。これでなますを作って、酒のさかなにするのだった。私の毎日は、荒っぽい海の男相手。辻に行くときには、何か知らない世界をのぞいているようで胸がときめくのだった。

 サザエとりの根拠地にした糸満宿屋は、魚の集散地にもなっていた。宿屋の女主人である上原のカナーアンマーは、商売にも義理にも強く、とても賢い人。それでみんながたよったのだろう。伊江島や名護、前兼久から船が入り、「売りさばいてください」と魚を持ってくるのだった。那覇で売られる魚の多くは、ここに集められていたと思う。

 カナーアンマーの力で、魚の行商を女も二十人はいつも集まった。宿屋はまるでセリ市のよう。その舵(かじ)はカナーアンマー一人の手で動かし、見事にさい配を振るっていた。

 若いころ、商売をするならカナーアンマーのようになりたいと思っていた。だがこの年になっても、まだ近づけない。

 昭和四年旧の八月に、私は糸満出身の金城賀徳と結婚した。私が十九歳で、夫は一つ年上。サイパンでカツオ漁をしているウミンチュー(漁師)だった。それは私の意思ではなく、魚売りから帰ってきたら既に酒盛りの用意がされていたのである。

 私は人に頼って生きていく気持ちは、毛頭なかった。一人でもやっていける自信はあった。だが、家を手伝って五年。働くのは苦にならなかったが、このまま狭い沖縄で、魚相手に一生を終えるのがどうにもいやだった。友達のように紡績に行きたい。沖縄を出てみたい。そう望んでも、父の「結婚したら自由にしてやる」の一言で片づけられていた。

 だから私の結婚は、この人と一緒になったら外国へいけるという事で、決断したようなものだった。そして昭和四年旧の十月、夫とともにサイパンへ出発。私にとって新しい冒険の始まりだった。

 海岸のそばのキタガラパンという所で、夫の両親と姉妹の六人で暮らした。ここに来てまず驚いたのが、毎日ご飯が食べられること。沖縄ではソテツ地獄でイモばっかり食べていたというのに。肉や魚も、いくらでも食べられた。

 当時サイパンは日本の委任統治領だったから、税金がない。そのため物価は安く、大変暮らしやすい所だった。また南洋の表玄関として栄え、砂糖やアルコール、カツオ節などの産業も活気があった。日本人は三万人ぐらいいいたと覚えている。

 私たちはまず十五馬力の船を買った。次に五十馬力のサンゴ船を手に入れ、カツオ船に改造。そして夫と本部出身の小橋川亀吉氏、八重山から呼び寄せた私の兄の三人組で組を組織。カツオの一本釣りを始めた。県出身の十七人の漁師が、この船で働いた。ここには南興水産と個人のカツオ船が十隻ずつあったが、私の所は配当制にしたので漁獲高はいつも一番だった。

 この組でカツオ節製造工場も造った。また沖縄出身の七、八人の雇い子を呼び、義父に養成してもらった。

 私は私で、家の近くで魚屋を始めた。義父がサバニでとる魚や、自分の所の工場から出るカツオ節にならない魚を売ったのが最初。次第に手を広げ、他の工場の雑魚も一手に引き受けたのである。持ち前の闘志と情熱は、私を家庭に閉じ込めておいてはくれなかった。

4.次々と事業広げる

 サイパンではずっと豊漁が続き、私の商売も順調に運んだ。三人の女の子も生まれ、恵まれた結婚生活だった。

 ここに来て三年目の昭和八年ごろから、カツオの肝臓を塩漬けにする仕事を始めた。今まで肝臓は魚の頭と一緒に豚のエサにしていた。それを商社員が見て、「もったいない。ホルモン剤になるから本土へ送ってくれないか」と言って来た。

 魚の贓物とはいえ、漁師が命を張って取ったものを捨てるのはすまないと思い、できるだけ商品に替えていた。腹子や「コッコレーグヮー」と呼ぶのどの固い部分をカツオ工場から取り珍味として売った。また、暑い所なので、痛みも早い。かまぼこ製造も手掛けていた。どっちみちついでの仕事。引き受ける事にした。

 肝臓は、カツオの身上である。魚が傷み始めると、解けてなくなる。夜中でも船が入ると雇い子に取りに行かせ、新鮮なうちに塩づけにして氷づめにした。個人船十隻から出る肝臓は、全部私が引き受けた。だが、沢山とれるものではない。一度にせいぜい二百から三百匁ぐらい。面倒で手間のいる仕事だった。

 この頃がこの仕事が軌道に乗ったものだから、横取りしようとするヤマトンチュが現われた。肝臓の奪い合いとなり、入札で決めることになった。結果は五銭の差で、向こうが負けた。私はついでの仕事だから高い値で買えるのであって、塩づけにだけしたのでは引き合うものではない。この時初めて、捨てるものを私が金にしてあげているのが、皆にわかってもらえた。災い転じて福となったわけだ。

 この時のヤマトゥンチュのように、サイパンでも何事につけウチナーンチュを一段下に置いて見ていた。あからさまに差別と好奇の言葉を、投げつける人もいた。

 私たちが草履などをはいていたら、とても砂浜をあるけるものではない。ところが本土の偉い人は、「はだしで歩くな」と怒る。仕方なくはかない草履をいつも持ち歩き、道に出る時だけ使った。

また、普段は働きやすい簡単服しか着ない。ある日和服姿をした沖縄出身の医者の奥さんが店の前を通ったので方言であいさつを交わした。すると魚を買いに来ていた本土出身のお手伝いさんが、「まあ日本人みたい」と言う。私は「沖縄の人は日本人と思っていないのか」と言い返したが、こんなことは日常茶飯の出来事だった。

ところで、その次に始めたのが旅館の経営。昭和十三、四年ごろのことで、私は二十代の後半になっていた。

 始めたきっかけはこうだった。名前は忘れたが警部補だった人に、旅館を買う金を貸した。ところが公職にあるため、なかなか営業許可が下りない。結局売ることになったが、「カネさんの金で買ったのだから、あんたの方で引き取ってくれないか」と言われて持ち主に。

「紀伊国屋」という名前の高級旅館で、十五部屋あった。だがいくらなんでもここまで細かく手が回らない。未亡人になったため、私をたよってサイパンに来ていた妹のクニに経営を任せた。

旅館の外に貸家も買い取り、次々と事業を広げた。また、南興水産株式会社の販売代理店となって、カツオ以外の魚は全部私の手を通して卸されるようになった。

南興水産は船十隻をもち、二~三百人を使って鰹節を作る大手水産会社。カツオ以外は用はないので、雑魚は魚商いをする人に売っていた。ところが包丁を使う作業場で商売人にうろうろされては、仕事がはかどらない。それで雑魚は売らないと言ってきた。

そうなったら困るのが、住民と魚商い。「代理店を作るから」ということで今まで通りにさせ、代理店には私が選ばれた。南興水産の鈴木社長に「あんたの手からよろしく頼む」と言われたが、私は「同業者からはもうけませんよ。会社の方で手当てを出すならやりましょう」という条件で引き受けたのである。

魚屋、肝臓の塩づけ、旅館、貸家、南興水産の代理店すべて夫とは別々にやっていた。海と陸では仕事も違うし、第一夫は大の商売嫌い。相談することはあっても、事を決めるのは何時も私だった。そしていつも私はいつしか“糸満の女傑”として、世間の噂にのぼる存在になっていた。

だが、どれ一つとして自分から乗り出してやった仕事はない。私に飛び込んできたものを、引き受けたまでである。損な性分だと思うけど何もかも抱え込むのが好きで、仕事どころか苦労まで背負い込んで、忙しい忙しいというのが肌に合っていたのだろう。

しかし、いい事ばかりの連続ではなかった。昭和十二年に長女の初子が六歳で病死。それから一年もたたない翌年のハーリーの日に、三歳になったばかりの三女フサ子をやはり病気で失った。出産で生命の確かさを知った母親が、その命の終わりを見る。この苦しみは、とても言葉なんかで言い表せるものではない。

さらにだんだんと、サイパンに日本軍がふえていった。この戦争で、日本軍の強大な基地となった島である。戦争の足音はどこよりも早く、住民に対する軍の圧迫が始まり出した。

5.軍が魚納入を強制

 私のこれまでの実績がものを言ったのか、軍にも魚を納入するようになった。昭和十三年ごろのこと。ところがどんどん兵隊はふえるし、漁師の徴用や船を取り上げたりで魚がデフレ状態になってしまった。すると軍が介入して公定値段を決め、安く抑えたのである。少しでも高く売ろうものなら、その場で罰金。厳しく取り締まった。

魚は少ないのに、軍にも商売員にも卸さなければならない。全く取り勝負である。軍は納入しなければ船の石油の配給はしないと脅すし、商売人は生活ができないと訴える。卸元の私は両方の板挟みにあって、何度も苦しい思いをした。

戦争が始まると、サイパンは陸海軍の兵隊でふくれあがった。そして一般住民には、「戦争に協力して疎開せよ」という命令が下った。ところがサイパン島の周囲には米艦船がぐるっと取り巻き、窮鼠(そ)そのもの。疎開船が出るたびに魚雷でごう沈。一度に何百人もの死傷者を出した。

鉄船は魚雷にやられるが木造船だったら大丈夫というので、私たちは木造船を作らせていた。そしたらある将校が「サイパンは日本のここだ」といって自分ののど仏をさし、「ここがやられるぐらいならどこへ行ってもむだだ。この島で身を守る方法を考えた方がいい」と勧める。私たちは今度は防空壕を造った。命が助かりたい一心であれこれ講じたが、間に合わなかった。アメリカ軍がサイパン上陸を開始したのである。

 昭和十九年六月十五日の午後突然である、日本軍の強大な基地だっただけに猛攻撃。つき破るようなはがしい爆音に両手を耳から離すことができなかった。

私たちは着のみ着のままで壕に逃げた。だがそこは兵隊がいっぱいで入れない。「なぜ出ていって戦わないのだ」と言うと、「見張りだ」と答えて動こうとしなかった。やむなく奥へ詰めさせたが、南洋の夏である。蒸し暑くて息もできなかった。

 艦砲も爆弾も収まった夜、壕をでた。サイパンの町は火の海となり、赤々と燃えていた。私たちの家や船が焼けていくのを、ただ茫然と見送るだけだった。

それからは、あてのない逃避行の始まりである。ダッポウチョウやダウダウ、マタンシャの山を、目的をなくただ死から逃れるためにさまよった。

昼は木陰や岩陰で息をひそめ、暗くなってから移動する。時々、夫と十二歳から乳飲み子までの四人の子供、そして夫の両親、妹、叔母夫婦と順々に手さぐりをして、人数とその無事を確かめるのだった。だが雨のように降る照明弾には逆らえず、義父が行方不明に、最後まで会うことはできなかった。

食料は何も持っていない。サトウキビやパパイヤ、芋をかじって飢えをしのいだ。何日も空腹が続き、「もう少しだから我慢してね」と子供なだめるあんな哀れは、もう二度としたくない。

八月の十五夜前だった。米軍の爆撃を受け、耳の側から弾が飛ぶ。弾がさく裂すると煙で目は見えなくなるし、手に破片がささる。また子供がおびえてギャーギャー泣く。娘は「おかあさん降参しよう」と叫ぶ。まるで生き地獄だった。

そしてとうとう捕虜に。よくも命があっらもんだと思った。これで二カ月間の逃避生活は終わり山を下りたが、夫と二男の姿はどこにも見えなかった。

私たちはススッペの収用所に連れて行かれた。ここで初めて日本軍が玉砕したことや、多くの在留邦人が悲惨な最期を遂げたことを知ったのである。それから、四、五日たった日のこと、収容所に送られてくる人の中に夫と息子を見つけた。お互い死んだものと思っていただけに、泣いて喜び合った。

収用所には毎日のように捕虜が連れてこられ、最後には一万三千人を数えた。そして島の半分が、金網で囲われた収容所に変わり果てたのである。米民政府や病院、学校もつくられた。炊事、衛生、農業、漁業などの作業班も組織。」日に日に落ち着き、平和がよみがえった。だが作業以外は、金網の外には一歩もでられない。かごの中の鳥のように、自由はなかった。私たち日本人を監視したのは、島民のチャモロ族。私の家の地主だったホセイ・サブランは巡査部長になっていた。

統治されている島民にとって、日、米どこが戦争に勝っても同じこと。アメリカが上陸して日本が危ないと知ると、さっさと白旗を掲げて捕虜になった。そして、チャランカのサトウキビ工場の宿舎に保護されたのである。日本が負ければ、今度は米の翼下に入った。考えてみれば、気の毒な民族だった。日本に対して敵がい心はもっていないので、夫が作業からそっと持ち帰る魚を見て見ぬふりをしてくれた。

食糧はずっと配給。だが、とても足りない。自分たちであれこれ工夫して腹を満たした。物資不足の中でモヤシやみそを作ったのも、今は懐かしい思い出だ。軍服のHBTを直して、子供の着物も縫った。今まで仕事に忙しく、子供は義母にみてもらっていたが、ここでは一日中ずっと一緒にいられる。親子そろってあんなにゆっくりできたのは、後にも先にもこの時だけだった。

6.LC貿易の幕開け

サイパンの在留邦人が、日本の敗戦を知ったのはだいぶ後のことだった。収用所で映画を見ていた。するとその中で、昭和二十年九月二日に行われたと言って、米戦艦ミズーリ号上で、日本が降伏文書に調印しているシーンが出てきたのである。野外映画館は騒然となった。子供たちは「うそだ、日本は負けるもんか」と大声を出して、石や帽子をスクリーンに投げつける。大人は、玉音放送や沖縄上陸の様子が映し出されて初めて敗戦を実感し、泣きだすのだった。

それからというもの、収容所の平和は一転した。敗戦や帰国についてのさまざまなうわさがとびかう。また「日本は負けた。今からはアメリカ世-だ」と言いふらした人が、同じ日本人に殺される事件も起きた。負けたことはわかっていても、認めたくはなかっただろう。外地にいるだけに、その気持ちは強かった。また、いつこんなおそろしい事件が持ち上がるか、不安な毎日を過ごしていた。

それから五か月ほどたった昭和二十一年三月、故郷へ帰れることになったのである。捕らわれてから二年もの歳月が流れていた。

私たちは米軍の舟艇に乗せられ、沖縄に向かった。この島で十五年かかって築き上げた財産は、すべて失った。だが、この時、父や親類の無事を確かめたら、またサイパンに戻って出直すつもりでいた。丸裸にはなったが、烈々たる闘志だけは失っていなかったのである。私はこの時34歳。4人の母親になっていた。

糸満の生家は警察が使っていたので、その辺の近くの規格屋に住んだ。そして夫は、米軍から舟艇を払い下げてもらい、カツオ漁にでた。私の方は、まき売りを始めた。新規まき直しがスタートしたのである。

 まきは伊平屋から運ばれてきた。ついでに米や芋を持って来て、衣類と交換してきてくれと頼む。一方本島各地からは、本土引揚者が衣類を持って食料を捜しに来る。お互いにないものを交換し合ったら助かるとお思い、物々交換の仕事を始めた。そして次第に密貿易の品物も扱うようになった。

当時の糸満は、台湾や香港との密貿易の物資集散地となっていた。金のある四、五人が組んでヤミ船をチャーターし、沖縄から薬きょうなどの基地物資を運ぶ。その帰りに小麦粉や砂糖などの食糧を、山と積んで来る。そして私の所に「売りさばいてくれ」ともってくるのだった。このヤミ物資を買いに来るのは、那覇の商売人。船が入ると、どっと押しかけてきた。

あのころの商売人は、多かれ少なかれ密貿易に関係していた。極端な物資不足の時代で、住民の生活も経済も密貿易で成りたっているのだから、警察も見て見ぬふり。戦後、沖縄の住民が生きのびてこれたのも、また経済復興の基礎が作られたのも、密貿易があったからだと今でも思う。

昭和二十四年に那覇の香港通りに店を出した。密貿易商人から依頼された品物を、さばくためである。店といっても、わずか一坪の小さなもの。名前の通りこの界隈は台湾や香港、本土からのヤミ物資や、米軍基地からの横流れであふれていた。

しかし、昭和二十五年ごろになると、民間貿易が始まりそうだといってヤミ船が月に一回しか入らない。これでは商売にならず、次は警察で競売されるヤミ物資を扱うことにした。

当時“戦果”と称して米軍基地の物資を盗むのがブームで、逮捕される人が多かった。また、ヤミ船で運ぶ物資も押収され、警察に山と積まれていた。警察はそれを競売にして、民間に払い下げたのである。私は砂糖や小麦粉、油などの食料品を、ひと山いくらとまとめて買った。

物資欠乏時代から品物は飛ぶように売れたが、なにしろ出所が警察。「高く売るな」とくぎを刺され、ただ働きのような儲けしか出なかった。ヤミ貿易の時も同じ。人が「一円モーキ」と馬鹿にするほど、薄利多売。いずれも、毎日を食いつなぐためのものでしかなかった。

昭和二十六年に、民間貿易が再開された。それまで外国貿易は政府間貿易に限定されていたのが、貿易庁に権限が委譲されると、だれでも商品輸入ができるようになったのである。いわゆる“LC時代の幕開け”だった。

私はこれを機に那覇に移り、本格的に小麦粉や砂糖などの食糧問屋「金城商店」をスタートさせた。だが、借金だらけで始めたものだから、最初は同業者から取って卸す二次問屋にしか過ぎなかった。

あれも売りたい。これも売りたいと、だんだん欲が出る。そうめんやかん詰めなどのLCを他人を通じて開設した。ところがブームに乗って現れたLCブローカーである。入荷してもすぐには渡さず一度他の業者に売り、そのもうけで再びLCを引いてやっと私の所へ届くというあくどいやり方。ほかにもあれこれ手を使って、甘い汁を吸おうとする。

 こんなことなら・・・・・と、昭和二十七年三月に合資会社に法人組織し、自分の手でLCを開くことにした。私が社長に就き、夫は常務。社員は娘の正子、親類の大城昇次郎と玉城忠一、それにいとこの照屋敏子(現金宝堂社長)が紹介してくれた宮良英規の四人。社員も少なく、商売の方もまだまだ足が地についていなかった。

7.創設期の琉球製糖救う

金城商事がここまで来れたのも、砂糖と小麦粉で基盤を築いたからだった。つまりこの二つが当たったのである。まずは砂糖の話から。

 戦後の混乱期は、食糧確保が第一でキビ作は後回し。また製糖工場も戦火にやられ、ほとんど皆無だった。この悪条件を克服し、昭和二十六年に大東糖業(宮城仁四郎社長)が戦後真っ先に操業を開始、その翌年には、琉球製糖(金城金保社長)が設立された。

 この二社の砂糖を独占的に扱ったのが、“三羽ガラス”と呼ばれていた糸満の三人の女だった。光陽商事の金城慶子氏、照屋商店の照屋ウシ氏、そして私である。香港通りで私の店の両わきにこの二つが並び、三店で競い合っていた。

 始め操業したての琉球製糖の砂糖は、大東島から戦前の機械を購入したとかでサビが混入して、色も悪い。のどにひっかかって、とても食べられるものではなかった。琉糖は、それを売ってくれと頼む。資金のない私は、「なんとか売ってみるから五十袋貸してくれ」と交渉した。すると販売係だった平良松氏(現那覇市長)が、「このイチュマナー(糸満人)はムノーウマーンサー。こんな大きな会社に掛けをさせてくれとは」と言う。売れないとわかっているものを、何も無理して取ることはない。じゃあいいさと断った。

 ところが金城金保社長が私を訪ねて、「うちも金がない。社員の月給は砂糖で払っている」と窮状を訴えた。なるほど平良氏が、掛けを断るのも無理はなかった。それに砂糖も倉庫に眠ったままなので、解け始めているという。これでは汗水流した農家が、気の毒だ。沖縄の糖業も育たない。「金を工面してでも買おう」と引き受けたのである。

 例の三羽ガラスの三人が、それぞれ二千袋ずつ契約。計百五十万円(B円)を納めて、琉糖の社員の丘陵を払わせた。

 さて、サビ入りの砂糖を買ったものの、このままではとても売れない。黒糖に作り変えて売ることにした。なべ、窯の準備から手間賃迄、総てこちらの負担。機械のサビが取れるまでずっとこの作業が続いたのである。創設期の琉糖を救ったのは、私たち糸満女だったと自負している。

 「今まで犠牲になってくれたから、貴方方以外には卸さない」という事で三羽ガラスの店が特約販売店に指定された。さあ、それから売り合戦である。一斤につき二円の利潤が決められたのだが、競争はエスカレートするばかり。一円どころか五十銭さえももうからず、もともとという時もあった。売手市場だったから、本当はもうかるはずだのに・・・・・・。

 この泥試合は、長い間続いた。だがその間、女三人に割り込むどころか追いつく者さえいなかった。全く私たちだけで砂糖市場を取り仕切っていたのである。なかでも私は、他の二店のように金がなかった。小売店に掛け売りもできず、少し仕入れては売ると言った自転車操業。しかし次第に得意先が増え、いつの間にか三羽ガラスの先鋒(ぽう)となっていた。

8.砂糖の本土進出  

前略

 ところで昭和三十年ごろに「嘉手納第二東映」という映画館の経営に加わった。このきっかけは、ずっとさかのぼった昭和二十三年にある。大島の人が映写機とフィルムを売って、砂糖代を払うからと言ってきた。それは当時、露店映画館・国際劇場をつくった高良一氏(現中城公園長)が、買うものだった。

 ところが高良氏は”発電機事件“で逮捕され刑務所の中。遊ばせておくのはもったいないと、夫とその妹たちの三人で巡回興行をした。娯楽の少ない時代に非常に喜ばれたので、夫は映画館を作るんだと言っていた。だが糸満町議員の二期を務めていた時に、脳イッ血で倒れ死亡。私は夫の夢を継いだのだった。

 最初は景気も良かったが、テレビの出現で赤字続き。八人の株主が一人、二人と減って私が株の半分を持つようになると赤字社長を押し付けられた。昭和40年の

五十六歳の時、がんばって三年で赤字を取り戻した。やれやれと思っている時に、消失。放火では仕方がないなと夫もあの世であきらめてくれているだろう。

9.小麦粉の輸入再開 

 略

10.系列会社を増やす

(前略)

 昭和三十二年には、傍系会社「マルタケ製麺(めん)」を設立した。小麦粉を輸入していると、どうしても破袋が出る。商品価値が下がり、値も半分だ。なんとか小麦粉の二次加工は出来ないものかと考え、そうめん製造を始めたのだった。

 昭和四十一年には、マルタケの出資持ち分を全部同社に譲渡。新たに「金城商事製麺工場」を設立した。この工場は沖縄食糧の竹内氏が売り出し、それを比嘉嘉栄氏(現北部油脂工場)が買った者。赤字で運営できず、今度は私の所へ回って来た。現在は工場を分離して、別法人「カネヰ食品(株)としている。

 次に扱ったのが飼料。いくら食糧が専門とはいえ、人間と動物では勝手が違う。日清製粉飼料部の田中稔隆氏(現日清ペットフード社長)が勧めに来た時、「鶏のエサは味がわからないし・・・・・」と迷った。ちょうど小麦粉の輸入規制にあい、会社の損失を補う輸入物資の欲しい時である。養鶏、養豚を一から教えてもらう約束で、引き受けた。だが五十歳で、未知のものを学ぶのに骨が折れた。

 あの頃の故郷の糸満は、養鶏ブームで鶏の町だった。私の長兄を筆頭に、養鶏業者はみんな知り合い。まずは、そこから攻めていくことにした。ただ資料を売るだけでなく、養鶏の専門を派遣してつきっきりで指導させた。そのかいあってそれまでどこも千羽足らずの飼育数だったのが一万羽にも。これで財を築いた人も多かった。

 飼料と同時に、鶏卵も取り扱い商品の中に含めた。飼料代の代わりに、卵を集めたのである。エサは手に入るし、卵は確実に買ってくれる。養鶏業者にとってこんな便利なことはない。どんどん販路が広がっていった。

 一度は養鶏倉庫もつくって、軍にも納入した。しかし、その都度の入札制で、競争も激しい。菓子業者に間に合わせるだけでいいと思い、軍の方はしばらくでやめた。

  中略

沖縄の食糧経済に携わって三十六年。常に県民の台所の一端を預かっているという、誇りと自信でやって来た。だがこうして一つ一つ振り返ってみると、決して平たんな道ではなかったと感慨深い気持ちでいっぱいになる。女の活躍を“男まさり”受け止める社会の中で、様々なハンディにも堂々と向かってきた。自ら選んだ道ではなかったが、男にはできない仕事を女がしたものだから、こんな生き方もいいだろうと思っている。

ところでただ商売一筋にやってきたから、趣味なんて一つもない。毎日を休まずに「働いてきた。私のおなかも休むことなく、十一人の子を産んだ。二人は亡くしてしまったが、九人の子供たちは立派に成人してくれている。孫二十人にも恵まれ、こんな幸せなことはない。

昨年の夏に糖尿病で倒れ、いよいよ年貢の納め時かと思ったが、最近やっと回復した。私は、まだこれ

からも働くつもり。それが昔から働き者で通った糸満女の、生き方だと思っている。

【出典:私の人生 金城カネ】