--> 海人工房資料館ハマスーキ

第5章 3.八重山生まれの

NPO法人ハマスーキ設立当初からの役員である上原孝夫さんは、1943年糸満漁夫の子として八重山諸島黒島の伊古で生まれ、幼少期を黒島で過ごし、5、6歳のころに母親とともに糸満に引き揚げた。黒島でのことは幼かったので、断片的なことしか覚えていないと言う孝夫さんに、島での暮らしや引き揚げの様子などについて聞かせてもらった。

話者:上原孝夫さん 1943(昭和18)年生まれ。短大卒業後、叔父の経営する(資)マルタケ製麺での勤務を経て、居酒屋「美山鶯」等の飲食店経営や沖縄ツーリスト初代糸満営業所長、(株)大同火災海上保険の代理店を開業。その傍ら糸満市商工会の法人化や青年部の設立、ダイエーの誘致及びショッパーズ糸満の開設、糸満泡盛同好会結成等に尽力。NPO法人ハマスーキ設立当初から役員としてハマスーキの運営を支えている。

〈黒島ナガンニ〉と呼ばれる

孝夫さんの実家は〈〉と呼ばれる。正式なヤーンナー(屋号)は〈〉だが、黒島で漁業をしていたので、〈〉と言った方が周囲には分かりやすいと孝夫さんは説明する。代々漁業を家業としてきた〈〉の家人が、黒島で暮らすようになったのは、祖父の鍋さんの代からだという。

「黒島には、オジーの代から行っている。そのオジーは40代で亡くなったと聞いている。オトーの明は明治43(1910)年、オカーのキミは明治45年生まれ。オトーは男3人に女4人きょうだいの長男。親父の男兄弟は3人とも黒島に行っている。私は姉が2人いて、上の姉は私と一回り近く年が離れている。その姉たちも黒島生まれ。親父は私が子どものころには戦争に行って島にはいなかった。親父は沖縄に戻って来て、また戦争に呼び出されて。戦地は中国だったと聞いているけど、傷痍軍人で病院に入っていた。黒島では二男叔父さんの亀次が中心になって漁業をしていた。叔父さんはサバニを何隻か持っていた」

瓦屋とヤトゥングヮたち

黒島に住んでいたころのことを尋ねると、大きな瓦葺きの家と屋敷内に大勢の人がいたことが印象に残っていると話す。

「屋敷の周囲は石で囲まれていた。屋敷の中に入っていくと、井戸があって、その井戸を覆うように大きなガジュマルの木があったのは覚えている。セメント囲いの大きな水タンクもあった。黒島では水で苦労したと後から聞かされた。東側に石積みの瓦屋の大きな家があった。瓦屋の西隣に茅葺きの家があって、女たちがご飯を炊く所だった。うちのオッカー以外に女たちが3、4人ぐらいいた」

家には孝夫さん母子や二男叔父さん家族のほかに、ヤトゥイングヮ(雇い子)、またはヤトゥイ(雇い)と呼ばれると少年たちも大勢いたと言う。

「家にはヤトゥイングヮの子どもたちがたくさんいた。10人ぐらいはいたんじゃないかな。ほとんど山原(出身)で。私を子守する男のヤトゥイもいた。この人は照屋の人で、私より5つぐらい上だった。ヤトゥイングヮを世話していたのは糸満に残ったオバーだった。オバーの名前はカナー。オバーがどんなふうにヤトゥイを連れて来るかは知らないが、舟に乗るヤトゥイはオバーが世話していたと聞いた」

沖縄戦終結の数年後に孝夫さんは黒島を引き揚げたが、引き揚げ後の黒島での出来事として次のようなことがあったと話した。

「ヤトゥイングヮが謀反起こして、石垣のシカに逃げて。新聞沙汰になって。叔父さんの名前も載ったはず。これが大きなきっかけになって、ヤトゥイングヮ制度がなくなった」

 孝夫さんによると、黒島の叔父の元にいたヤトゥングヮの少年数人が島を脱出して、石垣島の警察に保護を求めた。

この出来事は、当時の地元紙に「虐待に耐えられず」、「年季奉公に売られ」、「人身売買事件明らかに」などと衝撃的な見出しとともに報じられ、戦後消滅したと思われていた「糸満売り」がいまだ存在していることを明らかにすることになった。

ヤミ船での引き揚げ

最後に引き揚げの様子を話してもらった。

「(引き揚げは)6歳ごろ。幼稚園は糸満幼稚園を出たから、6歳ぐらいじゃないか。オッカーとすぐ上の姉が一緒だった。黒島を離れる時のことは覚えていないが、黒島から与那国島に向かっている。与那国にはオッカーの兄弟がいた。どういう事情だったかは分からないが与那国に姉を残して、オッカーと私は糸満に向かった。船はとにかく小さい船。ヤミ船だった。糸満ではちゃんと港があるのに、こっちには入らないで、南区の公民館の近くで船を降りた。しかも夜だった。高く積まれた石積みの護岸があって、近くに造船所があったのを覚えている」

引き揚げ後、孝夫さんは糸満幼稚園に通うことになったが、しばらく糸満の子どもたちが話す言葉が理解できなかった。

「方言が分からなかった。理由は分からないけど、黒島では全部標準語だった。そのころの私を知る人から『ヤーヤ、ヌン カラン。、トータンドー(お前は方言が分からず、標準語使っていたよ)』と言われる」と振り返る。

取材日:2021年6月22日、11月25日

1 沖縄島北部や先島、奄美諸島各地から糸満の漁家に年季奉公に来た子どもをヤトゥイまたはヤトゥイングヮといい、

   この制度をイチマンウイ(糸満売り)といった。

2 石垣島の登野城、大川、石垣、新川の四つの集落の総称。

3 1954年12月7日「八重山毎日新聞」、同年12月8日「沖縄タイムス」「琉球新報」