--> 海人工房資料館ハマスーキ

第6章 2.海人のまちの匂いと音

崎山正美(昭和24年生まれ)

 海人のまちの時代状況は、文章と写真だけで表現できない。私が生まれた昭和24年以降でも様々な変化があった。私の実家はカンジャージョーの西の端になり、隣はミーヤマテーキンの大きな屋敷で、目の前は、町端区の網干場と船揚げ場であった。当時はサバニ全盛時代で、港に降りるヒラグヮーと呼ばれるスロープを0数人の海人が架台に乗せたサバニを船揚げ場に押していく光景があった。そのうち、ウインチで引っ張るようになり、鎖が道を横断して巻き上げられていった。その間、車は当然のこととして停止させられる。20数年前にヒラグヮーが港に張り出すようになってからは、いかにも漁村らしい風景は消え失せた。

 夜が明け、空が白んでくるころには、港周辺に独特な音が響いた。一つはサバニに付けたエンジンの音である。何艘ものサバニが漁協のセリに時間に間に合わせて帰ってくる音である。さらにゴロン、ゴロンとボイラーの音が響く。清水湯のボイラーの音である。清水湯の営業初めは午前6時頃であったと思う。

 昼ごろには、ガラ、ガラ、ガラと氷を粉砕する音が聞こえて来る。清水湯の隣には赤瓦屋の製氷会社があり、そこで造った氷をトロッコに乗せ数人がかりで押して道路を横断し、現浜本アパートのある敷地にあった氷を粉砕する塔屋に上げ粉砕し、漁船に積み込む。当時は南方漁業に行く木造の大型船も結構あったので、この氷粉砕の音は日中よく聞いたものだ

 冬ともなれば、よく「海鳴り」の音を聞いた。冬の鈍色の空のもと、この音を聞くのはなぜか寂しい物を感じた。ところがある年齢になって、この音が「海鳴り」ではなく那覇飛行場にジェット機が着陸した時に発する逆噴射音が来た交ぜに乗ってやってきたものということがわかった。

 糸満は門中社会ゆえにお葬式となれば、死者は門中墓に葬られる。故人の家から出棺すると龕車に乗せられて門中墓に向かう。後ろには親族たちが長い葬列を作る。人々は無言で静かについて来る。ただ龕車が未舗装のコーラル道をガタゴトと音をたてて行くのが寂しくもあり、おどろおどろしかった。その音も道路舗装によって消えていったし、葬儀も風葬から火葬に代わっていく中で寂しい風景も薄れていった。

 糸満は島尻の西半分の中心地であり、海人のまちとは言いながら官公署がありサービス業も集中していたので、農村部から糸満に用事や買い物で来る人も多かった。糸満ロータリー周りはその交通の要所で、各地に行くバス路線の要であった。ロータリー近く(現在のファミリーマートの)に精米所があり、農村部から精米に来る人が利用していた。このころ糸満の農村部にも水田があった。精米所の周りには米粒が結構落ちている。これを狙って沢山のスズメがこの近くに住みつくようになった。夕方ともなると近くはスズメの鳴き声に満ちていた。その後この建物が壊され、スズメたちはロータリーのモクマオウに移り住んだが、そのロータリーも改修にあってモクマオウが伐られるとスズメたちは右往左往の大騒ぎで、ロータリービルの西面のルーバーを住みかとした。そのロータリービルもラウンドアバウト工事に関連して取り壊されて、遂にスズメたちは住処を失いどこかへと消えていった。

 匂いの話をすると、我が家は町端区の網干場・船揚げ場に面してあったので、網を豚の血で染める時の匂いとサバニの保護のために塗るサメ油の匂いが今もって忘れられない。今の時代なら、苦情が出ておかしくないのだが、当時はこれが糸満のまちという意識もあって、苦情を言う人など一人もいなかった。もっとも我が家を除いて他は海人の家なのでそれは至極当然のことであった。

 1958年頃、現高瀬地区の北端の埋立地に俗称「クジラ工場」と呼ばれた鯨体処理場が建設され稼働した。その様子が糸満市の広報に掲載されているので、ここに紹介しよう。

鯨体処理場とは、沖縄近海で捕獲されたクジラの完全利用化を目的に設置されたクジラの解体処理施設のこと です。県内には糸満のほかに、名護、佐敷に同様の施設がありました。沖縄近海での捕鯨は1950年代後半より 本格的に行われるようになり、これまで年間捕獲頭数が20頭前後であったのに対し、1958年には290頭、 59年には224頭を記録しています。これは捕鯨船の隻数が増加したことによるものですが、乱獲が資源の枯渇 を招き、60年182頭、61年99頭、62年24頭と、捕獲数が激減していきます。これにより、捕鯨そのものが中止に追い込まれ、鯨体処理場での作業も見ることができなくなりました。 陸揚げされたクジラを、柄の長い刀で切れ目を入れながら、肉塊 ・皮脂肪などに解体していきました。 1962年に、糸満の鯨体処理場「大洋漁業株式会社」の事務員をしていた字糸満の玉城勝子さんは「処理場で は本土から来た大勢の技術者が働いていて、敷地内には職員のための食堂もあった。もう、このころになると、捕獲されるクジラは少なくなっていた。クジラは陸揚げされると、ウィンチで巻き上げて皮脂肪をはいでいった」と 話していました。また、他の方々からは「クジラが揚がってくると、走って見に行った」「風向きによっ ては、潮平辺りまでクジラの臭いがした」「ウバと呼んでいた脂身が、コリコリとした歯ごたえで美味しかった」 と当時を懐かしむ声が聞かれました。

 

 確かにその匂いは独特で町中を覆っておりました。ウバは酢味噌をつけて食べるとおいしいもので正月料理としても重宝でした。しかし、いつの間にかクジラ工場のことはみんなの記憶から消えて行っておりました。

 1960年ごろだったか、糸満で養鶏ブームが起こった。海人から養鶏業に転職する者もいた。主な販売先は米軍であった。那覇からバスに乗って糸満に帰ると川尻橋を通過してオーグヮーを越えると潮臭さに混じって鶏糞の匂いが花をついて、うとうとしていても糸満に入ったと目が覚めることがしばしばであった。その頃に糸満漁業に何らかの転換期があったのかも知れない。

 音と匂いにも糸満の発展過程が良く表現されていました。

No.2 解体されるクジラ | 糸満市
クジラの解体風景
建物の前に立っている家

中程度の精度で自動的に生成された説明
今に残るかつての鯨体解体所の従業員宿舎跡
(2022年1月撮影)