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8章 1.大城家の海業  大城忠

聞き取り年月日:2021年11月19日

聞き取り相手:大城忠 (昭和〇年1月1日)

屋号:忠新出南宇那志

―大城さんのお父さんのお名前を教えてください

大城:大城正徳です。生年月日は〇年〇月〇日

父の仕事

―お父さんは、どのような漁業をしていましたか?

私の中学校くらいからの記憶から、ナイロン網もやってたし、刺し網ですね。そして、熱帯魚を採ってきて業者に売っていた。それ以外には沿岸漁業。子供が出来てから

やってたということなので、例えばの〇〇にはね、イカ釣りもよくやっていた。〇〇

まぁ、ナイロン網はもうメインでやっていたと思うんですけど

―サバニを持ってたのですか

もちろんもちろん、サバニです

―どこかの組に入って追い込みやるということはなかったですか

結婚してからは、多分なかったと思います。それ以前は何かやっていたと聞きました。追い込みをグループでやっていた。慶良間あたりにも泊まりがけで結構行ったというのはよく聞いていましたね。ただ、子供が増えてからは、お袋が心配してですね、危険なこと遠くへ行くなと、近くで漁やるようにしてくれと頼んだようです。

 あっ、もう一つね、ダイナマイト漁もやっていましたね。失敗して亡くなる人もいました。私が小さい時、小学校くらいでも南浜でもそういう事件があった。  

―それは大城さんが生まれた後の話?

そうですね、それがいつ頃からやっていたかっていうの私もちょっと記憶がないんだけど、私が小学生の頃、南浜でありましたでしょ、そこら辺から親父は出漁してましたね

―その火薬はどこで手に入れたんですか?

それはもうね、そこら中ありましたから。不発弾、俺なんか小さい頃はもう海行くと、不発弾があちこちあって、つまみ(信管?)が出てね、爆発したりする時もありましたから。もうね、だから原料自体は目の前にいっぱいあって、そういう危険ではあったんだけど、それでお袋、はもうやめてくれとそういうことはやるなと言ったそうです。

―ダイナマイト漁の原材料となる火薬は不発弾だけど、お父さんはその不発弾から火薬を抜くということもやっていたのですか

多分やっていたと思います。お袋もやっていたと思います。たまに信管の外し方を分からない人たがいたり、投げるタイミングを間違えたりの事故も結構多発していたという。私も小さい頃の記憶がありますね。

母親の仕事

―お母さんは結婚後主にどんな仕事をしていましたか?主に家仕事ばっかり?

いえいえ、そうじゃなくて。子育てもしながらだけど、ほとんど親父が採ってきた魚のカミアチネーですよね。最初の頃は行商しながら。

―結婚前?

戦争が終わって17~18歳のころ、糸満で何か稼ぐ場所があるということでまた、糸満に戻って来てた。その時はね、かまぼこ屋にお袋は就職したみたいね。あの頃糸満はかまぼこ業が盛んだった。

―どの辺まで売りに行ったのですか

大城:具体的なところまでは聞いてないけど、そのうちのおばあちゃん、要するにあのウミ

   ンチュ、親父の

―母親ね?

大城:うん、母親は聞いた話だとおじいさんが採った魚を名城方面、よく売りに行っていた   

   よとおばあは

―その辺に行っていた?

大城:そうそう、この近辺でやってたと。おばあちゃんはね。お袋がどこまでやったかとい

   うのは具体的には聞いていないけど、多分この近辺なのかもしれない

―今で聞いていたほうがいいね

大城:もう脳梗塞で倒れて

―ちょっと喋れない?

大城:もう…

大城:そこらへんはね、話はね、具体的には、俺なんかが生まれる前の話とかね、生まれた   

   直後の話っていうのは、私はよく聞いてないけどうちの長男とかね、私より5歳上で   

   すから、あとはうちの次男、それはまた少し分かるかもしれない

モズクの養殖

―モズク養殖はお父さんから始まった?

大城:そうです、そうです

―今の場所で?

大城:そうですね。最初はね、私の記憶に残ってるんですけど養殖タンクをそれぞれこのグ

   ループで。最初は何名ぐらいかな、20名ぐらいかな、細かい話はまたちゃんと聞け

   ば資料もあるかもしれませんけど、20数名くらいいて糸満の北名城の方の近辺とあ

   とは別の場所、何ヶ所かあったみたいです。3,4ヶ所ぐらい。合計20名前後ぐらいは

   いたよっていう話は聞いているんですけど

―それは共同でやってるわけ?

いえ、共同ではなく、それぞれ例えば網100枚とかね、200枚ぐらいの割り当ての中   

   で。ただその区域、漁業権の区域みたいなのは、俺の記憶では3ヶ所ぐらいあって、

   それは埋め立てする前ですから、結構うまくいったみたいなんですけどね

―そのモズク養殖を始めたっていうのは、19何年ぐらい?大体でいいけど

大城:私のあれでは、早かったと思いますけど。恩納村に次いで2番目ぐらい

崎山:それがだいたい?

大城:81,2年。79年から80、ここらへん。これももう一回、確認しないといけないんです

   けど、資料的には残っているはずです。漁業組合、そん時は20名ぐらいいたよという    

   のは聞いています。こっちの南区の方では7,8人くらいいたよと、それが3ヶ所くらい

   あったと

―じゃあ、当時は儲かった、うまくいったわけ?

大城:1年目は多分儲かったかもしれませんけど、結構それがたくさん採れて豊作になって   

   2年ぐらい良かったのかな。組合に出してたんだね、組合に出して、組合でも塩漬け

する機械を入れてまあ、結構とれるようになったということで。

   組合に出してたんだけど、豊作になった年があって、それで業者がもう買わないとい

うことで組合も手を引いたんですね。引いたもんだから、それでほとのモズク漁師さ

んは辞めましたね。残ったのはひとりかふたり、だったと思いますね

―そのひとりふたりっていうのはお父さん?

大城:そうそうそう、南の北名城の今うちが使ってるのは、5,6年ぐらいはやってたみたい

   ですよ。割り当てられてね。それがみんな辞めたもんだからうちが今やってる。親

   父一人がやっていたということですね

―忠さんが入ってきたのはいつ頃?お父さんと一緒に

大城:私が事業を始めたのが1988年、昭和63年の11月ぐらいに私は始めたんですけど、最

   初は兄貴と親父からもずくを買い取ってやったのがその88年

―買い取ってっていうのは、要するには加工?

大城:そうです、加工

―養殖はまだ?

大城:まだまだ

―お兄さんがやっていた?

大城:はい、私はまだ。別に私が行かなくてモズク出来てたのでね、2年ぐらい。2年ぐら

   いは、その時は1年目はもう結構豊作で私も少し買い取ってですね、事業始めたんで

   すけども

―買い取るということは、結局は、経営はお父さん、お兄さんと別なのね?

大城:うん、全く別です。あのもう、一緒じゃなくて。私は今度また加工業者です。あとも 

   うひとつ、その時にそれやるきっかけになったの、またね親父のモズクが豊作になっ

   て買い手がつかなくなったんですよ。それでそれをなんとか売らんといかんなという

   風に困ってましたから、買い手が付かなくて。組合も取らないしどこも取らない

―最初の組合が買わないよって言ったまたその後?自分が加工業の始めた時の話?

大城:えっとね、これ重なってるかも知らんけど、ちょっと記憶がちょっとあれなんですけ   

          ど2回ぐらい豊作があったと思います。2回ぐらい、その前にもあって

―豊作なるたびに仕事がなくなる?

大城:そうそうそう、だからもうあのね、もう3年ぐらいで、みんなウミンチュ、だからこ

   れで食っていけないと、やったんだけどこれじゃ作っても買い手がいないじゃないか

   ということでほとんどのウミンチュは糸満の場合やめました

―糸満以外の恩納とかはまだやっている?

大城:それはもちろんもちろん。もうだからあの、メインなのは、南城市、勝連。勝連が一

   番漁場的には多いんですけど。最初の頃は、糸満の方が恩納村に次いで2番

   目ぐらいだったんですよ。

大城:うん、これ早かったですよ。というのは試験場が近かったでしょ。そういう関係も    

   あって恩納村でやってたものを糸満にすぐ持ってきた。瀬底さんって知っています   

   か?

―瀬底さん知らない

大城:その方が普及員だったので、その人が多分恩納村と一緒にやりながら、これみんなに   

   広めようと

―技術を持ってきたというわけね?

大城:そうです、養殖技術です。確立できたんですよ。だから多分、77,8年、5,6年ぐらい

   に大体研究してて、これならやれるねと、恩納村が最初にスタートにしている。その

   翌年ぐらいに、じゃあ、普及して全県的に広げようね、ということでその1番手に上

がったのが多分糸満だったと思う

―恩納村から糸満に養殖技術を持ち込んだのは、もう一回何年頃ですか?

大城:多分、その翌年ぐらいなので、多分80年から81年ぐらいか、そこらへんじゃないか   

   なと私もはっきり覚えてないですけど親父が始めたのがそのくらい。まあこれも記録      

   には残ってると思います。漁業組合の

―1980年頃に技術を持ち込まれて、お父さんたちはそれに従って養殖をして大城さん   

   は忠さんは、1988年頃から加工業者になったと?

大城:そうです。その間にさっき言った豊作不作が3回あったと

―大城さんがモズク養殖をしてからの話を聞きますけど、まず名城での養殖の状況を

大城:そうだね、私がやり始めたのが多分加工業やって3年後ぐらいだったと思います。な   

   かなかモズク買い取って営業始めたんだけど、なかなか売れ切れなくてですね。だん   

   だん資金が無くなってきて、兄貴から買う、あの時兄貴が中心にやってましたのであ   

   の次男がね、と親父がやってたから。そのもう、買い取る資金がちょっと無くなった   

   もんだから、親父に相談して、自分も賄い分は自分でやりたいんで、場所をちょっと   

   提供してもらえんかということで次男がやってた場所からちょっと南側ですかね、そ   

   この方は使ってなかったんで、そこを使わしてくれと、要するに買い取るお金が底を   

   ついたもんですからね

―大城さんは、お父さんとお兄さんが買い取りをしてたわけだけど、大城さんが   

   買い取りをしなくなると、そのお父さんとお兄さんのモズクは誰が買っていたの?

大城:それは上原さんって言う、知ってるんじゃないですか?あの、前に米須の方でやって

大城:養殖じゃない、買い取り。あの中間業者。

―別にそれは困らなかったわけね。

大城:そうそう、だから買い手はいたんですよ。2ヶ所ぐらい、あそこもありました。那覇

   〇〇の方

大城:那覇〇〇に売ってましたね、あの時は。だから私が買わなくても別に売り先はあった

   んですね。あの業者が2ヶ所くらいありましたから

―忠さんはなかなか売れなくて困ったわけだけど、売れなかった理由は何ですか?

大城:理由はですね、最初に塩漬けモズクをやってたんですね。あの当時はね、塩漬けが全   

   国的にそんななかったんでね。塩漬けしてスーパーに売ったり。スーパーっていうの   

   は、ぐしけんストアっていうのが昔ありましてね、地元の。そことかあるいは、那覇   

   の方のスーパーに行ったり、あるいは鮮魚店、マチグヮーの鮮魚店、那覇の方を中心   

   にね、50箇所ぐらい回って置かしてもらって魚と一緒のお店の方にね、5、6個ぐら   

   い作って、それをこう定期的に回ってやるような。

   まあ、ある意味ひとりでできる。買い取ったのを塩漬けしてそれを袋詰めして、やっ

   たんですけど1日ね、1ヶ月やってね15,6万ぐらいしか売上なかったんです。本当にど

   んどん資金がどんどん底つくような感じで、糸満市でやったり、那覇の近辺の鮮

   魚店を回って営業していましたね

―じゃあ、いつ頃からかなり順調に伸びていったか?

大城:順調に伸びたのは、丸市ミートさんに塩モズクではなくて生モズクを売り始めたこと   

   ですね

―それは何年くらい?

大城:88年ぐらいから始めたって言ってましてよね、昭和63年11月。それは4年ぐらいはも   

   う、3年か4年はもうほとんど駄目な状態だったので、塩モズクでは駄目だというこ

   とで、おいしい採りたてのモズク、魚と同じていう感覚でモズクも鮮度によって美味   

   しんですよ。その場で食べるモズク。塩漬けしないモズクを売った方がいいなという   

   のがあったもんだから、それを最初に始めたのが丸市ミートさんだったんですね。糸   

   満もあったんですけど、那覇の方でやっぱ売った方がいいだろうと

―それがだいたいいつ頃から?

大城:1992,3年くらいかなと思いますね。これもうちょっと調べて後で報告をします。記録

   には残ってますから

大城:1991,2年ぐらいじゃないかなと思いますね。3,4年後くらいから始めたと思いますか   

   ら

―危機的な状況というのはいつ頃だった?

大城:今はまだいい方ですけれど、最初の頃はもう本当ずっと赤字でしたから5,6年

―最初はね

大城:5,6年赤字でもう辞めようと思ってるぐらい

―それからすごく伸びたってこともあったじゃない?

大城:そうそう、だから伸びたっていうのは丸市ミートに売り始めて、売上が伸びたんです   

   よ。売り上げが伸びたっていうのは要するに、直接自分が採ったモズクもね、最初、   

   自分が採ったモズク、その頃自分でやってましたから。親父とふたりやってましたか   

   ら。

   採ったモズクを、朝採って昼ぐらいに丸市ミートの方の売り場をね、確保してもらっ

   て、そこにタライを入れて、タライを置いて、地元の人だとかあるいは観光客の人と

   かあの頃来てましたから、その人たちにただあげるんじゃなくて、試食販売して多

   分、試食販売をしたのは、私が一番だと思います。生モノをこうやって販売したのは

   ね。それが1年目は、まあまあ2ヶ月ぐらいしか売れなかったんですけど旬の〇〇が

   あるわけですから。その後また、〇〇がなくなるんで。美味しいモズクじゃなくて塩

   漬けのモズクは売れないという考えがあったから。

   あと冷凍施設もないんで保管する場所がなかったんですよ。旬の時しか売れなかっ

   た。それでも3,4年ぐらい、、これで売れるなという自信もついて、まだ赤字なんで

   すよ。まだまだ1年間食っていける量っていうのは売ってなかったんで、それでも5,6

00万円ぐらいは売ったのかな。

   

―2年間で?

大城:そうそう、それから少しずつ良くなったのは、生モズク、あるいは〇〇モズクが売れ   

   るなっていうことで今から14,5年前くらい、今、株式会社になって13年なんですよ

   その2,3年前ぐらいに、経営の勉強会っていうのがあって、第2の商業っていう那覇商

   工会が主催する勉強会があってそこで新しい経営についても含めてですね、学ぶた   

   めに3ヶ月くらい講習を受けて、講師になった税理士さんていうのがいたんですけど   

   ね。その方を通して、これを学んだ後にですね、補助金みたいなもの、補助制度みた   

   いなのが認定される、この制度があったんですよ。

   これを学んで公庫に借り入れしに行ったんですね。こういう勉強会ってこういう事業

   計画を作って、資金を借入資金を得ようということで、その時に公庫から1000万ぐ

   らい借りられたのかな。これを元 手に冷凍施設ですか、今の冷凍設備を増やして、

   今の加工所もこのプレハブの今の〇〇。今の〇〇のとなり、向こうで長くやってまし

   たから。そこらへんが資金繰りが少し良くなって、設備が出来た。

   年間通して保管できるモズクを、さっき言ったとおり、旬しか販売できなかったの

   を、一年中販売できる体制にしたんですね。それがだんだん良くなって来て一年中売

   れるようになったんですね。丸市ミートで

―不作の年が〇〇てかなり厳しかったって?

大城:それはある程度、順調に行った時にまあ、崎山さんが手伝いに来た頃は良かったんで

   すけど、3年ぐらい

―天候不良?

大城:天候不良…うん、そうですね。すごく水温が上がったり下がったり、雨が多かったり

   大雨が続いたりして結構、3年ぐらい続いて現状価格が大分上がったんですよね。 

   300円近くまで上がって、それで買い取りだけの力がまた無くなったもんですから

   ね、資金繰りが。借り入れしないといけない、でももう銀行が貸さないですよね。ま

   あ、売上に応じてからしか貸さないから。また借りるにしても利率がまた高くなると

   か、ストックを持つこと自体が非常に大変な状況になるということで、もう我慢する

   しかないなというところと資金繰りが非常に苦しい時期でしてね。そのとき人もどん

      どん増えてて、多分、崎山さんがちょっと手伝いに来た時もその前ぐらいはね、通常

   30名ぐらいいて、アルバイト生も入れたら40名ぐらいいたんですよ。旬の時はね。

   だから結構売り上げがどんどん伸ばしていって1億4,5000万ぐらいまで伸ばして、最

   初2000万くらい借入して、1年目ぐらいから2000万ぐらいに上がったんですよ。工場

   と設備、1年間稼働できるようにしてね。そういう部分で、どんどん売り上げが伸び

   て倍々倍々で伸びてた、だから1億までいくのに、4年くらいもかかんない。それで

   どんどん人も増やして、順調には行ってたんですけど、機械設備・新商品開発とかで

   すね。広げすぎたということもありましたね。

   商品開発とかですね。そういうのが多分うまくいってる時にやったんですけどその反

動が来たのが5,6年前ぐらいですね。過剰な設備投資あったり、新商品開発したのが

   あまり売れないと、商品〇〇が置いてる売れる商品は、どんどんどんどん生モズクと

   スイーツ事業があまり売れなかったんですね。あともずくのたれかな。

―そういう状況があって、その次襲ったのがコロナで観光が〇〇

大城:そうですね、それでほとんどその3年、コロナの前に1億2000万ぐらい売り上げあっ   

   たんですね。これが1年目に8500万ぐらい、4000万ぐらい減ったんですね。そして去   

   年、今期があれですね、2年目のコロナの時は、5600万、要するに最盛期の3分の1ぐ

   らいまでいかないにしても5分の2ぐらいかな、落ちたのが去年、今年

―本土出荷は、その後どうなったの?

大城:本土出荷は、本土のスーパーさん、取引が5,6年前、7,8年前出来てきたんですよ。観

   光的な売り方を私たちしてましたから、空港で結構売り上げが伸びてたんですよ。全

   盛の売り上げの7割ぐらいは空港で、そして2割が卸売、本土の方。1割がインターネ

   ット。ていう部分の中で観光がほとんどなくなって全滅に近くなったのでその売り上

   げ原因がさっき言ったような、非常にコロナ禍の厳しい、〇〇は増えたんですよ。あ

   とはインターネット。でも観光業が売上の7割ですから、それがもう1/3以下6000万      

   7000万売っていたのが1000万くらいまで減ったもんだからね、非常に厳しい状況

―今はどう?現在は?

大城:現在はもうね、それで何をやったかという売上を伸ばしきれないもんですから過剰な   

   設備であったり過剰な人員、そして経費をどんどん削減しました。社員も内何名か    

   は、辞めてもらいました。中にはもう辞めます、っていう人がいたんですけどね、辞   

   めるよということで、会社の事情も分かっている人もいたんで、その分保険でね、〇   

   〇保険を〇〇したり色々して、できるだけ困らないようにはしたつもりなんですけ    

   ど。まあ所謂、人員を減らしてあと経費、今のこの冷凍設備を〇〇

―それが今の状況?

大城:そう、今の状況です

―ではまたはこれからですね。コロナが明けて

大城:ただ良かったのは、〇〇今までまあ、経営的な感覚でやってなかったところがあって   

   儲かるだろうとかね、数字的根拠がないまま〇〇の部分の、それがうまくコロナのあ   

   れで整理出来たっていうのがね、無駄なものみんな省けたっていう、結局、売れるも   

   のに特化したという

―じゃあ、少し明かりが見えてきた?

大城:そうですね、見えてきましたね。まずはそういう過剰な設備であったり、過剰な人員

   これをまず減らすことが売上が落ちた部分の中で実際に仕事が無くなっているんで、

   今までは仕事がいっぱいあったから人も入れたけど、だいぶ効率よく仕事できるよう

   に

―良くなりつつある?

大城:ありますね。特にあの、キミコさんとねコウシロウが。今だから、経理4名5名ぐら

   い居たけど、その人たちみんなもういませんから。

―ああ、そうね、家族でやってる?

大城:もう家族経営が基本、まあある意味でね、これはね、私の経営〇〇のなさだったんで

   ね。

―給料払ってる?ちゃんと?

大城:もちろんもちろん。当然払わないとまた怒られる、まあ払いすぎても逆に困るんだけ   

   どね、ちゃんと適正な部分でやってますね。これでだからまた、〇〇整理できて、経   

   費削減をして、やっと身の丈の仕事をしている感じですね

―じゃあちょっと戻りますけど大城さんたちの門中は何ていうの?

大城:門中?ああ、宇那志門中。

―屋号はなんていう?

大城:みーんじへえうなし(新出南宇那志)。意味は、新しく南側から出た宇那志。

―ウミンチューである  忠さんから言っておきたい事

大城:やっぱしね、僕も親父が今こうやって仕事できてるのは、埋立してモズク採れない時   

   期が長かったんですよ、10年ぐらい。こっちの西崎だとか潮崎。あの埋立後にモズ   

   ク漁がね、ほとんど出来なくなったんです。入れても途中で切れてしまう。その10年   

   間というのは結構大変な時期で、私も行くけど何とかその権利を得るため。要するに   

   誰もやらないとこれ返してくれと、あるいは、俺に譲ってくれという人もいたので、   

   これはやらないといけないなと

―いずれはまた〇〇しないといけないんでしょ?

大城:また親父から引き継いだものをね、兄貴から引き継いだものを、それでほそぼそとは   

   やってたんですよ。でも原料が〇〇なって、親川さんという方ですけれど、あの方が   

   〇〇なウミンチュから譲ってもらって商売ができてたんですよ。自分たちの〇〇はほ   

   とんどゼロです。10年、15年ぐらい。

   それで何が言いたいかというと、親父が残したそれをいつかは良くなるかもしれん、

   と海が良くなるかもしれんという期待の元でやってた部分があったので、それがやっ 

   と、おかげさまで北名城の海が回復し始めて、本当にモズクがね、天然のモズクがど

   んどん取れるようになってね。海は回復するんだな、自然は汚さなければ、回復する

   んだなということで、10年はかかりましたけどね。回復しつつあるという中で、それ

   を次の世代に残さなきゃいけないという部分で、うちの息子にも引き継ぐつもりで今

   やってるんだけれども、どうするかどうかはまた別の問題があるかもしらんけど、次

   の世代にちゃんと残したいなというのが私の、彼にね、あなたの代で終わらすなよ

   と、彼がやらないと言うんだったら誰かに継がないといけないんですけど、そういう

   思いですね

大城:あの、〇〇と同じようにできるだけ採っててやってというもんだったと思うんだけ    

   ど、天然モズク業をいつからやってたかなっていうことを私なりに調べてて、勝連漁   

   協の向こうもあの、昔から天然モズクのやる場所っていうのがあって、工場もいっぱ   

   いあるんで向こうの参事私より一期先輩だけど、〇〇、モズク協会のメンバー、彼に   

   その話を聞いたら、彼も私と同じような記憶で復帰前、小学校高学年、中学校ぐら    

   い、その自分のおばあちゃんが、それを行商してたという話を聞いたもんだから、復   

   帰前から4,5年前ぐらいから天然モズクを作ってたんだなと

崎山:かなり昔から採ってたんじゃない?

大城:これももっと昔だと思うんだけど、記録にちゃんと、だから生きてる人、私はだから   

   小学校高学年、中学校のころそういうの見てるから

<1:06>

崎山:それね、明治以前の琉王国の頃から、当然食べていたと思うんだよね。だから採って   

   いたというのはもう、本当にかなり古くて、その記録としてどうしたいかというの    

   はなんだろう、要するに商品として流通していたっていうところを聞きたいのかね

大城:ああ、なるほど

崎山:だから僕は、古代人からモズクは食べているわけだよね

大城:だからもう、ある意味でね、あなたと同じようもんですよね。その売り物みたいなも   

   んで、〇〇すると採ってたと、それを〇〇いうところからいうと、今みたいな行商し   

   て、採って塩漬けして売り歩いてたとかあるいは本土に出荷

崎山:おじいは本土に出荷してた?

大城:本土に出荷というよりもあの頃は、〇〇に出していたような感じ

崎山:本土出荷っていうのは、もうかなり新しい時代になってくるわけよね?

大城:復帰前後だと思いますよ

崎山:じゃあ、それと県内でカミアチネーと同じようにしていたのはいつ頃だったんでしょ   

   うか?要するに、鮮度の問題が出てくるわけですから

大城:なにが?

崎山:鮮度

大城:ああ、そう。だから塩漬けにして生では絶対、もう塩漬けしてね、昔からそれしかな

   かったという方法ですよね。だからそれ糸満でやってたというのは私の中に記憶にあ

   って、本土に出したとかあるいは買いに来た業者に渡したとか、それが勝連の人の話

   だと自分のおばあちゃんがそういう行商をしてたと

<2:42>

崎山:僕らはそんな、年を取らないまでも、この辺で〇〇で一斗缶で売っていたという話は   

   ね、つい最近まで聞いてるもんね

大城:私が〇〇だから、親父と一緒にちょくちょく天然モズクは採ってたみたい、漁場近く   

   まで来る人いって。うちの養殖用のモズクまで採ってく人がいたんで。天然モズク    

   を近くで採ってたんだろうなと思うんだけど。でも何だっけ、モズクのブームが来    

   て、モズクは体にいいよと、それでどんどん増えてきたのはあるかもしれない。前は   

   食べる人たちがいなかったから

<3:28>

崎山:大城さんはその自分が大学行って

大城:いや、大学行ってない。僕は専門学校

崎山:ああ、そうね、専門学校行って養殖を加工を始める前にお父さんと一緒に船に乗って   

   いうことはなかったの?

大城:ありましたよ

崎山:それはどの辺で?

大城:いやもう近辺で。ここら辺、モズク以外にもね、冬になるともうシロイカ。〇〇を作  

   ってね

崎山: シロイカ採るにはちょっと沖合に出るよね ?

大城:うん、そうそうそう。一緒に行きましたよ

崎山:近辺?結構回ってきて?

大城:そこでもう、ここら辺ですよ。

崎山: 危険なことはなかった?

大城:いやもう、親父は、もう小さい時からウミンチュですから何回も死に目を見てきて生   

   き延びてきた人ですから

崎山: そういう話を聞いた?

大城:まあ、具体的にはあまり語らない人ですから、そういうのはねあのねもう本当寡黙    

   な人でしたよ。もう本当に何も語らない

崎山:あーそう

大城:あのだから僕らが小さい時、 お袋からはもういっぱい〇〇教えてくれたけど、もう   

   親父はもう何て言うんですか、親子同士会話するというのがほとんどなかった

崎山:糸満の人はシャイ、恥ずかしいというのがあるからね

大城:そういうのはあったし。ただの何も語らないけど一生懸命働いている姿、雨の日だろ

   うがなんだろうが、毎日見てた。大荒れしない限り、〇〇。それが私にとっては、非

   常に親の背中を見て、何も語らないけど〇〇、子どもたちに対する愛情も含めてね、

   まあそういうやり続けた親父がいたから今の漁業権もね、拡大できたという。だから

   ある意味、私一人で今の状態があるというわけじゃなくて、その親がやった踏み台に

   して今がある。ただ、その踏み台というのは非常に大事なことでうちの息子がどうい

   うふうにするのか分からないけど私がやった土台からやってもらいたいですよね。ま

   た一からやり直しゼロからやり直しというのはというのは、苦労も絶えないだろう

   し、本来だったら、個人的なあれで漁業も商売も沖縄の人が何でその発展しないのか

   なと思ったら親がやったものを良いも悪いも含めて世襲が出来ていない。まあ、ウー

   トートーとかああいうのみんなやってるけど

崎山:それは、密貿易の女王ナツコの本の一番最後に奥野修司さんが書いてるよ

大城:受け継がれていないって?

崎山:いや、組織になってないって

大城:だから、個人個人なんですね

崎山:社長だけが全部やっていて次の世代がいないからその世代だけで終わっちゃうわけで   

   すね

大城:それは、もう本当に正解でですね。自分自身、親父も俺にこーだよあーだよと教えな   

   かったですよね。自分の技術的なものを

崎山:お父さんは、亡くなる前にね、息子に何か、何も伝えてないの?こうして行きなさい   

   とか、全然?

大城:いやいやいや、それはもう本のとおりですよ。まあ、昔で言えばね、病院もほとんど   

   行かなかったですよ。大腸癌で亡くなったけど、もう本当に痛みが出て、我慢できな   

   くなってそれで痛い痛いって病院行きなさいって、お袋が何回も〇〇

崎山:復帰後の話でしょ?

大城:亡くなってまだ15,6年

崎山:お父さんがそういう風にもう倒れたころってのは、西崎の埋め立ても終わっているわ   

   けでしょ??

大城:終わってますよ

崎山:だからもう、ほぼ沿岸漁業がもう〇〇してしまった頃よね?

大城:親父は、ナイロン網ずっとやってたんですよ。モズク業は駄目だったけど

崎山:どこでやっていたの?

大城:いやもうこの近辺。喜屋武岬からじゃない、あの大度海岸あたりから

崎山:あっちでも刺し網漁できるの?

大城:〇〇だから、沿岸の地域、だから珊瑚礁との境目なんですよ。沖には多分、出てない   

   〇〇かも分からんけど、基本的には刺し網、ナイロン網ですから

崎山:喜屋武の海岸か、米須も含めて

大城:そうそう、含めて

大城:米須から与根あたりぐらいまで

崎山:それはなんか場所を持ってるの?

大城:場所っていうか、刺し網漁っていうのは〇〇しますから。自分がやった場所を。

   うちの親父が良かったのは、例えばね、潮の満ち引きで入れるんですよ。干潮満潮。   

   そして、普通だったら夜やって、朝方取りに行くという形なんだけど親父は最初はそ   

   れやっていたんですよ。そしたら暑い日は、早めにかかった魚っていうのは、鮮度が   

   悪くなって、〇〇が上がってくると鮮度が悪くなって、というようなことで、その時

   の刺身は自分たちやってました。あっ、お袋は、親父が採った魚を自分で売りさばい

   たんです、そこで。あの〇〇よりもっと前。だから、新城さんいたでしょ?あの、オ

   バー、双子橋の近くに。

崎山:新城商会な?

大城:ううん、〇〇、要するに刺身屋の走り。女傑と呼ばれた女性がいたでしょ。そこが刺   

   身屋〇〇

崎山:戦後すぐくらいじゃない?

大城:そう、戦後すぐ。あのうちのお袋は、新米みたいな、2番目の刺身屋だったみたい。   

   その時お袋は、だから親父が採った魚をやりながら仕入れて、自分のお店を持って、   

   結構売り上げ伸びたみたい

崎山:結構儲かった?

大城:儲かった。だからこの家も作れた。この家を作る原動力は、そういう自分で店をオー   

   プンしてまあ少し〇〇ことができて作った

崎山:はい、分かりました。以上でございます