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8章 2.ウミンチューの町に生まれて

「あんまー魚市場」で鮮魚店を営む大城清子さんの実家は、屋号を「」といい、アンブシとパンタタカーを営む伝統的な糸満ウミンチューの家である。ウミンチューの家に生まれた清子さんは、子どものころから大家族の一員として様々な家の仕事を日々手伝っていた。2021年11月、昼過ぎの店先に清子さんを訪ねて、家の手伝いに明け暮れた子どものころの思い出と、「あんまー魚市場」開設のころの話を聞かせてもらった。

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自動的に生成された説明話者  さん

1944(昭和19)年12月生まれ。父上原誠章、母マカトの三女 。結婚後子育てをしながら、夫大城武二さんがとってくる魚の路上販売を始める。1993年、清子さんを含む女性有志7人で、糸満漁港近くに「あんまー魚市場」を開設。現在、同施設内で鮮魚店を営む。

本部で生まれる

―〈〉の長男誠章さんの何女ですか。

 私のきょうだいは女5人に男5人の10名きょうだい。私は上から5番目の三女。

—生まれた場所は?

私と兄貴は山原で生まれました。本部の新里っていう部落だったね。私が生まれたのは戦争中で、上の子もいて、アンマーは大変だったはず。本部に家も畑もあったんですよ。今は組合の養殖場になっています。向こうに長いこと住んでいたみたい。戦争が終わって、いつ糸満に戻ってきたかは記憶にないです。

—家族で本部を訪ねたことは?

大人になってから、自分の生まれた所を拝みに行きましたよ。父が元気なころは、1年に1回はバスを借りて家族みんなで山原に行きました。父は、自分が昔やったことを、子や孫に見せて伝えたかったんでしょうね。自分たちがお世話になった所に挨拶に行くと、向こうの方からも「糸満のアッピーとアバーが来てるよ」と歓迎されてね。

—お父さんが亡くなった後は?

父が亡くなった後も、私たち姉妹と子どもたちで母を連れて1年に1回は、泊りがけで本部に行きましたよ。アンマーが「どうしても見に行きたい所がある」って言って、料亭とか魚を卸した所やマチグヮーを回ったこともあった。アンマーはどこに何があったか、ほんとによく覚えていた。すごいなあと思った。車で走っている時も「ワッターヤヤー。ンマカラ カミヤーマヤ クタンドー(自分たちはここから魚を頭に載せて行ったんだよ」などと説明したり。「帰りが遅くなるとオトーたちが迎えに来よった」って、いう話もよく聞かされましたね。

実家について

―実家の〈次良石垣〉について教えてください。

実家の〈次良石垣〉は、おじいちゃんのオジーが初代。喘息もちで、40代から仕事ができなくなって、後を継いだのはうちの父親なんですよ。父親は長男で、兄弟は6男までいるから、これを仕切って。

家には、オジーとトゥクーオバー。そして叔父さん、叔母さんたち。私のきょうだいが10名。ヤトゥイもいましたよ。うちの兄貴が昭和14年生で、ヤトゥイもだいたいあのぐらいの年齢。だから、家には常に、10何人、20人近くいましたね。私はまだ幼かったけど、台所に大きいテーブルがあって、チビシキナー(木製の低い椅子)に座って、みんなで一緒にご飯を食べたのを覚えています。うちのオジーとオバーと父親の3人は2番座で食べて、他はみんな一緒にご飯を食べていた。

また、この屋敷内にはいっぱいお家があったのよ。父親のきょうだいとか、アンマーのきょうだいとか。屋敷内に5、6所帯あった。

―とても大きい屋敷だったんですね。

いや、そんなに大きくはないけど。今みたいに大きいお家じゃないさね。自分が小さい時のことね、こんな家があったのは。ある程度落ち着いたらみんな別の場所に家を建てて巣立って行った。

〈次良石垣〉の昔の家はカーラヤーでね。土間の台所があった。台所との仕切りがあって、仕切りの先も土間で、そこには機械の部品とか、海に行くからエンジンとかが置かれている。それからカーミ、海の亀がいっぱいひっくり返されて置いてあった。

―生きたカーミですか。

そう。捕って来た亀。あの時、亀がたくさん捕れていた。亀が捕れたら、ここに転がしていた。これをウミンチューの叔父さんたちが解体する。解体するときは亀にお酒グヮー飲ますんですよ。そしたらね、この亀が涙を出すわけさ。お酒飲まして酔っぱらわせてから、やるわけ。肉は自分でも食べるし、市場に売りにも行きました。

毎年豚を潰すときは、うちのトゥクーオバーは、この土間で豚肉の塩漬けなどを作っていましたよ。

―〈次良石垣〉の人たちはどんな漁をしていましたか。

漁場は行ったことがないから分からないけど、アンブシをしていました。日帰りです。自分が小さい時は季節ごとに場所が違いよった。夏は安謝方面。向こうでヤールグヮー(宿泊所)を借りて。冬は奥武島とか港川、知念、あの辺だったと思う。アンマーは毎日家から通っていたから、自分なんかは休みの日にはついて行きましたよ。

でも、それは昔の話。後からはずっと糸満でやっていた。冬には刺し網もやってました。刺し網はナイロンだから、夏にやると魚が網に引っかかって腐れるからダメということだったみたい。

―どんな魚がとれていましたか。

エーグヮー(アイゴ)とかカーエー(ゴマアイゴ)とか、カタカシ(ヒメジ)、チングヮー(クロダイ)、アマイユ(クロサギ)など、いろいろ。冬にはシルイカ(アオリイカ)やアチキン(リュウキュウドロクイ)とか。

―アチキンはどんな魚?

冬の魚で、いっぱい捕れていた。アチキンは骨があって、細く切って刺身にする。叔母さんたちが隣近所にいっぱいいるから、みんなで切って刺身をこしらえていた。

子どもの仕事について

―清子さんはどんな手伝いをしましたか。

小学校5、6年ぐらいからかな。シルイカの時期には、学校から帰ると、すぐにタライに入れたシルイカを那覇の公設市場まで持って行く手伝いをしました。

―那覇までどうやって行くんですか。

魚やイカは匂いがするから普通バスに乗せてくれないけど、親戚の叔父さんがバスの運転手で、この叔父さんのバスに乗せてもらっていた。昔のバスは長椅子があって、その下にタライを置いて、開南まで乗った。開南から公設市場までは坂を下りる。荷物を頭に載せてこの坂を歩くのは危ないので、リヤカーみたいな車を引く叔父さんがいる。これに荷物を載せたら楽なんだけど、お金とられるさね。アンマーからお金をもらうんだけど、このお金がもったいない。持てるぐらいの荷物なら、自分で持った方がいいから、自分で歩いて持って行った。

―重くなかったですか。

そう、重いですよ。イカは氷を入れないけど、20キロ~30キロぐらいはありました。首が固まりますよ。

公設市場の安仁屋のハンシー(お祖母さん)だったと記憶しているけど。私がイカを持って行くと、「マタマタ、ヤナ イチマナーヤ、マタ、ウンクヮン アタラサヤ ワカラン(糸満の人は子どもを大切にすることも分からん)」って言う。それで「ハンシー、そんな風に言わないでくださいね。アンマーからお金もらっているけど、小遣いにしたいから、自分で持って来たんです」と答えてね。

 ―他にどんな手伝いをしましたか。

仕事はいっぱいある。芋を洗ってから乾かして、シンメーナービ(深い円錐形で丸底の大鍋)に山積みして次の日の朝の準備をしないといけない。あの時分は薪が燃料。芋はマチグヮーに毎日買いに行くんですよ。アンマーは魚売りに行って家にいないので、これも子どもの仕事。遊びたいさね。学校から帰って来るのが遅いと、「サーン、イ」って分かる?短い棒を持ってずっと追いかけるわけ。 でも、これが日常。当たり前と思っているから、何も苦にはならない。

―中学校に入ってからも同じような生活ですか。

はい。中学校からはもっと大変。うちのお祖母ちゃんがとっても働き者だったわけよ。屋敷が広いから鶏を養っていた。最初は自分たちで食べる分だけだったのに、だんだん増えて。うんこの処理をしないといけない。学校から帰ってきたら、トゥインクス カカジヤー(鶏糞処理)。これは捨てるんじゃなくて、肥料に使うわけよ。それからアヒルも買っていた。アヒルはタチが悪い。あちこち歩きながらうんこするもんだから、しょっちゅう、掃除さ。

鶏はまた餌も用意しないといけなかった。売っている餌だけでなく、ギジギジンハー(タデ科の多年生草木)ってから、これを切って食べさせる。ギジギジンハーは野っぱらにいっぱいあるわけさ。カシガー(麻袋)持って、妹なんか連れて行って、一緒に取って来て。これを包丁で細かく切って、鶏にやった。

そしてこれだけじゃない。お祖母ちゃんが屋敷の中にフール(豚小屋)を造って、今度は豚を2頭飼い始めた。このお祖母ちゃんがとってもきれい好きで、私は毎日学校に行く前にフールの掃除。それで風呂に入ってから学校に行っていた。あの時分はお風呂場ってないさね。大きい鍋にお湯を沸かして、台所で体を洗っていた。

それから、豚の世話。あの時分は豚の餌は自分で作るわけ。それで残飯拾いをした。マチグヮーに行って、魚売りの叔母さんから魚の内臓をもらって来て、これに塩を入れて釜で炊いた。

それから、学校帰りに照屋の小母さんの家に行って、芋をもらってくることも日課だった。この叔母さんは親戚でもないけど、うちの実家の魚やイカを那覇の公設市場で売って儲けていたわけ。この小母さんから「グヮー置いてあるから、学校帰りに家に来て、取って行きなさいよ」と言われていた。だから、学校帰りに芋をもらって来て、これも炊いて豚の餌にした。

―休む暇ないですね?

祖母が私をとても可愛がっていたんですよ。祖母にお願いされたら嫌と言えないから。勉強?勉強したら怒られるよ。アンマーは「女は勉強しなくていい」と言っていた。でも、父親は偉大だった。「女であれ、男であれ、学校に行くと言ったら、親の務めとしてどこでも行かす」と言っていた。だけど、アンマーの目が光ってるさぁね。仕事いっぱいあるのに、勉強どころじゃないさ。

「あんまー魚市場」を開設

―中学を卒業後は?

自分の好きな所に行って仕事。いろんなことやった。那覇にあった上原商事、糸満の人がやっていたけど。そこの桜坂支店で働いていた時に結婚した。昭和49年に長男が生まれているから、結婚は昭和47年ごろ。

子どものころ、マチグヮーに豚の餌にする魚の内臓をもらいに行っていた時に、ナビーオバーっていたわけ。そこにいつも魚の内臓をもらいに行くと、オバーは「清子はお利口だね」と褒めてくれていた。うちの旦那はこのナビーオバーの甥っ子になる。オバーの紹介で結婚。お見合いさ。

―旦那さんはウミンチュー?

旦那は、ほんとはタクシーを持っていたわけさ。海がとっても好きで、しょっちゅう海に行っているから、自分はウミンチュー(漁師)するって言って、ウミンチューになった。ウミンチューするのはいいよ。でも大変。マグロの小さいもの、シビマグロって分かる?マグロ船でパヤオに行って釣ってくる。たくさん捕っても、あの時分はセリに出しても、1キロわずか200円とか150円、50円とか。安くて大変でしたよ。

それで、漁港近くにあったスーパーのプリマート。そこのバイヤーが良くしてくれて、契約してそこに魚を納めていたんですよ。うちの船は大福丸といった。サワラでもマグロでも全部一括500円で契約。直接、プリマートと契約するのではなく、プリマートさんが仲買にお願いして、仲買がプリマートに魚を持って行く。ところが他のウミンチューもそれを聞いて、セリが安いから自分たちのも取ってくれってなって。それで、そこだけでは魚をさばききれなくなって、あちこちのスーパーに持って行きましたよ。

マチグヮーの道端で、自分で魚を売るようになったのは昭和60年ごろから。ちょうど2時ごろ船が来たら、リヤカーを引っ張って行って。ミーナリ チチナリ(見よう見まね)して、魚をさばいて売って。

―場所は?

ちょうど今の「いとまーる」の向かいぐらいで売っていた。2時ぐらいになるとお客さんが待っていた。

ところが、路上販売は警察や保健所から取り締まりを受ける。下水の上まではいいが、下水のからちょっとでも道路にはみ出ると、警察から道路交通法違反と言われる。そして保健所からも衛生法に引っかかると言われ、露天で魚を売っていた私たちは路上の売り場を追われてしまった。それで、ここ(「あんまー魚市場」のこと)の向かいの漁業組合の駐車場を使わせてもらいたいと、組合長にお願いして。実家からテントを持ってきて、露天をしていたみんなでそのテントの下で魚を売っていました。

南部保健所にさんて方がいらっしゃって、実家がウミンチューだと言って、この方が親身になってやってくれてね。「いつまでもこうしては駄目だから、建物の中に入れるようにしましょうね」といろいろ考えてくれて。その時、商工会の早苗さんって方も一緒にやってくれた。この人の母親もイユヤー(魚売り)。私たちは仕事が終わると集まって話し合い。帰りはいつも12時。建物の持ち主は、初め、「イユヤーには貸さない」と言っていましたが、上原亀一郎さんが間に入って、ようやく話がまとまって建物を借りることができました。

資金は自分なんか7名のワタクサー(女性たちが蓄財した夫婦別財産)を出し合った。水を使うから掘り起こして土間にして、下水も造るし。大変でしたよ。

店舗内にフリーの売り場を作って、オバーたちにも提供した。このオバーたちも今はみんないなくなり、店舗を一緒に借りた7人の仲間も今残っているのは私と上原米子さんと2人だけになった。

―店舗の名前は?

ここはアンマーしかいないさ。だから「あんまー魚市場」とした。ここができた時にはすごかったよ。浦添や宜野湾辺りなど、県内のあちこちから魚を買いに来ていた。台の上に十いくつもの魚の箱を置いて。自分は刺身を切ったりして、ずっと立ちっぱなし。からもお客さんが訪ねてきて、「アンマーってどういう意味ですか」と、よく聞かれたりしていました。でも、今はマチグヮーに人が来ない。オバーたちはデイサービスに行って、外を歩かない。デイサービスは車で玄関まで迎えに来て、玄関まで送る。いったん家に帰ったら出かけないでしょう。そういう施設をこの辺りに造れば良かったんですよ。

―今扱っている魚は?

 今は勝冷凍さんのお願いして買ってきてもらっている。マグロの刺身やアカマチ((ハマダイ)の白身の刺身が主。オジサングヮーとか小さい魚は勝(冷凍)さんが買ってくるものを、その日の成り行きで売っている。店は朝だいたい9時ぐらいから開けて、切った分は売りたいと思って頑張るけど、今は赤字経営。お客さんがなかなかいない。マチグヮーの周辺の店も段々と潰れていっていて大変。

―今日はいろいろと細かいことまで聞きまして、すみません。

いや、何の話をしたか分からないけど。

―ありがとうございました。

(取材:2021年11月5日、聞き手:屋富祖民江・加島由美子、文章化:加島由美子)