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第10章4.糸満ハーレーを語る

沖縄の夏の風物詩の一つである糸満ハーレー。字糸満の旧集落である西村、中村、新島のから舟が出て3艘で競漕する。毎年旧暦5月4日に開催されるが、コロナウイルス感染症感染拡大防止のため、昨年に引き続き、残念ながら今年も開催中止となった。

「ウグヮンに始まりウグヮンに終わる」と言われるハーレー行事。競技は中止となったものの、今年も旧暦5月4日の午前、山巓毛では関係者によるウグヮンが行われた。この日の山巓毛には、例年だと会場となる糸満漁港で行事の進行を見守っている行事委員会役員の姿もあった。字糸満南区出身で、新島の漕ぎ手や監督、行事委員会の参与として長年ハーレー行事に関わってきた与那嶺和直さんもその一人。その与那嶺さんに糸満ハーレーについて聞いてみた。

話者 与那嶺さん 1960(昭和35)年、石垣島登野城の生まれ。ウミンチューであった父幾三と母貞子の二男。小学校4年生の時に家族で沖縄本島に引き揚げ、小学校6年生から字糸満南区で暮らす。現在、糸満ハーレー行事委員会参与。

毎年ハーレー舟に乗る

糸満中学校3年生の時に与那嶺さんは初めてハーレー舟に乗った。授業終了後に区ごとに生徒が集められ、「ヤーヤ、サクトゥ、ヤーサンナー(お前は頑丈そうだから、お前やったら)」と生徒同士で推薦し合い漕ぎ手が選ばれたという。

「始めて漕いだのは中学生バーレー。中学3年の時。自分は一番ウェークで自分たち新島が一番になった。舟はグラスファイバー製。トゥムヌイ(舵取り)はウミンチューで、この人が漕ぎ方などいろんなことを教えた。練習ではうまく漕げないと『 サヌ ワレー(力が弱い、代われ)』と言われることもあった」

「それからは毎年ハーレーに出ていて、青年、ウグヮン、転覆、アガイの全種目を40手前まで漕いだ。また、職域も含めて全種目の舵取りも経験している。ウグヮンバーレーの舵取りは十数年前からやっていて、コロナで中止になる前の年までやっていた。これまでの勝率はすごくいい。3番になったことも2回ぐらいあるけど、ほとんどが1番だった」

伝統的な舟の漕ぎ方、ハニヤーウェークとスンカーウェーク

かつての糸満ハーレーでは「ハニヤーウェーク」という伝統的な漕ぎ方があったが、近年この漕ぎ方は見られなくなった。年配の関係者からはかつての漕ぎ方が見たいとの声も上がるが、継承は難しいと言う。

「ハニヤーウェークは中村と新島がやりよった。漕ぐときにウェークを上に上げるので、正面から見たら鳥が羽を広げているように見える。この漕ぎ方がハニヤーウェーク。今はやっていないが、自分なんかが漕いでいた時はこの漕ぎ方で勝った。ウェークは基本、立てて持つ。姿勢は前かがみで顎を引く。ウェークを前に持っていき、内側の腕が耳を切るようにして引く。そして、引いた拳が必ず臍のところにくるようにする。拳がおなかに当たると、外側の手は自然と上に上がる。そして、潮が舟に入らないように必ず手首を返しよったわけさ。やってみないとわからんが、この漕ぎ方は慣れるまでは難しい」

「今は記録重視で、ピッチ走法のような漕ぎ方になっている。先輩たちや自分たちOBが昔のような漕ぎ方をしてほしいと言うと、青年たちは『ハニヤーウェークはもうできない』と言う。青年たちには、記録重視で漕ぎ方が変になっているから、少なくともウェークを持つ手首は返しなさい、そうするとウェークのが見れるからと、これだけは言っている」

「もう一つの漕ぎ方がスンカーウェーク。これはウェークを思い切り引っ張るような漕ぎ方でストロークが長い。水をはねないようにしてウェークは上げない。そして、クマ(サバニの上縁)に腕をくっつけて漕ぐ。波があるときにはスンカーで漕ぐと舟が進んだ。自分らが現役やっている時は、波のある所でも練習やりよったわけさ。そんな時、先輩なんかは『スンカー シヨー(スンカーで漕いで)』と教えていた。西村は練習から沖に向かってやったみたいで、昔は西村がスンカーウェークだった」

「また、鉦打ちも大切。鉦の音に合わせてハーレーを漕ぐと思っている人もいるがそうじゃない。鉦打ちの子どもたちには、『自分勝手に打ったらダメ。一番ウェークのウェークが海に入るときに鉦を“カン”としなさい』と教えている。勘の鋭い子は2、3回やると上手に打てるようになる」

新島のワカシバーレー

現在、新島では南区と前端区とでワカシバーレー(分カシバーレー)を行い、どちらがアガイスーブに出るかを競漕して決めている。

「今は埋め立てられているけど、サンエー潮崎シティーの東側がン。南区公民館辺りがン浜。前端公民館近くがウーバマ。南と前端ではもともと使っていた浜が違う。ハーレー前になったら、南は中ン浜、前端はウーバマに舟を出して練習した。そして、ワカシバーレーをやって勝ったところがアガイスーブに、負けたところがウグヮンと転覆競争に出るようになっていた。ところが、あんまり極端に南が強い時があって『ウンシシーネー フージェーン。リカ、ナーサヤー(こんな風にするとみっともない。交替でやろう)』となり、ある時期からアガイを漕いだところは次の年はウグヮンと転覆を漕ぐ、という交替制になった。その後、自分たちが漕いでいた時に、またワカシバーレーを復活させた。今はハーレーの1週間前に自練(糸満自動車学校)の向かい側の海で、勝負をしてどっちがアガイを漕いで、どっちが転覆を漕ぐかを決めている」

南区の御願

各ムラの関係者は、山巓毛や白銀堂などの拝所を巡りハーレー行事が無事開催できるよう祈願する。そして、ハーレー終了後には無事終わったことを各拝所に報告する。現在、新島ではハーレー前の休日に南区、前端区が別々に監督を中心に御願を行っている。

「自分がニーセーグヮー時分は、区長さんたちがハーレーの前日に拝みをしていた。自分たちがハーレー舟のペンキの塗りなおしをしている時に、区長さんが『拝みして来たからねぇ』と言っていたのを覚えている」

「自分は監督を引き受けた時に『ノー サンネー ナラン(はやらないといけない)』ということで、区長さんや女の人たちに『マートゥマー ミーネー シムガヤー(どこどこを拝んだらいいか)』と聞いて回ったが、よく覚えてないと言う。年寄りたちも『サンシガル サル、シーネー ヤサ(やらないのが良くない。やるのは上等)』と言うので、今は手探りでやっている。初めのころは、当日夜も明けない4時ごろから、ハーレーシンカ3名ぐらいで、山巓毛と白銀堂を拝みに行っていたけど、みんな仕事を持っている人たちであまり無理はさせられないので、やり方を変えた。ハーレー前の日曜などみんなの都合のいい日に、山巓毛、白銀堂、アナギの竜宮を拝み、当日は朝6時ごろに浜(南地区漁港内)にある3か所のを拝んでいる」

ハーレー歌

ウグヮンバーレーが済むと、各ムラのハーレーシンカ(ハーレー舟の漕ぎ手たち)が着順に白銀堂を訪れ、神々に結果を報告し、神人たちからの祝福を受けた後、ウェークを手に円陣を描いて回りながらハーレー歌を歌う。また、アガイスーブの終了後には西村、中村、新島の順にハーレーシンカがヌンドゥンチを訪れ、前庭と神屋でハーレー歌を歌う。

「自分たちは、年方のウミンチュー、ウグヮンバーレーのデーフイとか、舵取りの人とかから、ハーレー歌を習った。ハーレーの本番1週間前ぐらいから、(漕ぐ)練習が終わった後、あの人なんかが酒持ってきてね、(歌を)練習させよった。ウグヮンバーレーではこれ歌いなさい、アガイスーブではヌンドゥンチでこれ歌いなさいよ、と教えられた。だから自分は歌える」

「アガイスーブが終わってハーレーシンカがヌンドゥンチに行く道も決まっている。南区公民館の前からロータリーに出て、山巓毛に上って、そこから東に向かって進みの所に出て、ヌンドゥンチに向かう。(ヌンドゥンチの手前に来たら)『リバ サ リバ ティ……』を歌ってから、(ヌンドゥンチの屋敷に)入る。一度、歌わないで入ろうとしたら、『もとい』って戻されて歌ったことがあった。ヌンドゥンチに入ったら、(庭で)『 トゥマリ エイヤ……』を歌う。それから手足を清めてから神屋に上ったら、ヌルと盃を交わすわけさ。御香を立ててウートートゥして。トゥムヌイが先にやって、トゥムヌイからメンバーに交わす。終わったら、家の中でもう1回歌う。それで終わり」

後輩たちへの思い

最後にこれからの糸満ハーレーの担い手となる後輩たちへの思いを聞いてみた。

「これまでは南の監督だから、南のことを一生懸命にやっていたけど、今は違う。参与になっているから、三村のことを考えなければいけない。ヌンドゥンチでのやり方など、何年かぶりに見たが、新島だけでなく、他のところもやり方が違ってきている。自分なんかがやっていたことを教えていくしかない」

「昔は『ハーレーシンカ、マイネー、ビカーリ(ハーレーシンカが集まると酒ばかり飲んで)』と言われることもあったけど、実際はそうじゃない。好きなメンバーが加勢しに集まるけど、舟の準備や片付けなど、難儀は難儀。みんなが頑張っているから伝統を守ることもできている」

「後輩なんかにはいつも『ハーレー漕ぐのは名誉なことだから、自覚タンネーナランドー(自覚を持たなければならない)』、『(伝統は)イッターガ ランネー、ン ランドー(君らが守らなければ、誰も守らないよ)』、『ヤ チャーティランネー ナランドー(いつも漁師を立てないといけないよ)」、「市民みんなの協力でやっている行事ではあるけど、ウミンチューあってこその糸満ハーレーだよ』と話している」

聞き取り日:2021年6月16日と7月7日

聞き取り者:加島由美子