--> 海人工房資料館ハマスーキ

SDGs

SDGs

どれだけ続けたら、伝統か?

いつから区切ったら、伝統か?

「伝統」ってなんだろうかと、いつも思う。

沖縄発祥の空手だって、

琉球王国の士族が教養として学んだ護身術からなのか、その後「手(ティー)と呼ばれる沖縄古来の武術となってからなのか・・・

志摩半島の海女がすごいのは、約3千年を超える漁の歴史の中で、近代的な潜水器具を使わず「素潜り」で続けてきたこと。

自分自身の息の続く範囲で、海に潜り、アワビやサザエ、海藻などをとる。

資源を絶やさないために「口明け」という出漁日を決める制度、どこかで不幸があれば、口は開かない。潜水日数、回数、時間など、様々な制限、

資源の大きさ、様々な約束事を守り続け、海女漁を持続してきた。

それでも、漁場である海は、陸と繋がり、様々な影響を受けてしまう。

温暖化などによる、海中林の磯焼けなど深刻な問題があるけれど。

漁に出る前準備をしたり、仕事が終わった後に冷えて疲れた身体を温める「海女小屋」では、いつも薪を焚いている。

食事、休息だけでなく、子供の自慢話や旦那の悪口、いろんな会話が飛び交うところ。

「ここ(この海女小屋)は、最近ようやく電気が通ったよ」という所もあったけど、水も貯めて、火も起こして、食べ物も自分達でとってきて・・・

大規模な災害が起こったとしても、自分達で生きられるすべを全て持っているなぁと、いつも感動していた場所。

これこそ、持続可能な仕事や暮らしだよな、って。

沖縄では、特に昭和一桁生まれのオジィやオバァ達からは、いつも「ひもじくないか?」と心配された。「腹一杯食べられたら死んでみいいと思った」と子供の頃、収容所へ向かって歩いて行った」戦後、子供だったオジィのお話。

それほど苦しかった戦後の沖縄。

「♪〜金がないなら海にが行くさ 魚があれば生きられる〜♪」と・・・BIGINが歌ってた。そういえば、

白保のオジィやオバァ達は、よく「魚わく海」「命継ぎの海」「金庫グワァ-」と言ってたっけ。

戦時中の空襲時、干ばつの時など、食べ物がなくても海に下りれば、食べ物が手に入ったのだと。

白保の海には約120種類以上のサンゴがある。だから、海のゆりかごのごとく、そこに魚がたくさん住んでいる。

漁村イメージがある白保は、実は、広大な農地を持つ農村集落。おばぁが潮の満ち引きに合わせ、貝や海藻を取りに行ったり、オジィたちが数名で、海を歩いて、魚を捕りに。

「海を歩く」?って、そう、潮が引いた海には、サンゴ礁が湧き上がり、その上を歩いて深い海の境目まで行けるのです。

ジャージや木綿のシャツをつけ、滑りにくい靴を履いて、「まき網漁」で魚を

サンゴについた藻を食べる魚は、頭が沈み尾びれが海から出てるので、それを探し、背後から網をかけて魚を追い込んでいく。

おっとっと、と夢中になると、深い海に落ちそうになったりしながら藻、頭まで潜ることなく、びしょ濡れになりながら、楽しいおかず取り。農作業の合間に、潮時を図りながら、海に向かう。

船や凝った漁具を持たなくても、美味しいおかずにありつける。

サンゴ礁は自然の防波堤。集落の「石垣」として利用されたり、浅瀬の海に石垣を積み、潮の干満を利用する漁法「インカチ(海垣)」として活用したり。

サンゴの海に生きる、石垣島・白保の暮らし。

そこに海人たちが、離島などからやってきて、寄留民として住み着いた。

彼らは、主に、リーフの沖側、深い海との境目のサンゴ礁域で操業をする。

ハーリーなど、祭りの時には、電灯潜りで夜の海に潜って、魚をたくさんとってくる。若い人を連れて行ったり、技も伝授されたりと。

それをみんなで食べるようにと、鱗や内臓をとって、処理して、唐揚げにする。海人の技は、そんな風に活かされる。サンゴの島の独特な香りの魚のにおいと、潮の香りに包まれたコミュニティ。

生きるのに必要な、水、空気、食べ物。そして、生き物が食べ物である。そんな原点に触れたくて、私は、30年ほど前に沖縄の素潜り海人の世界に飛び込んだ。

自分の身体と技を使って、魚介類の命をいただく。それを売ってお金に変える。あるいは、物々交換をして暮らす。

そんなミニマムな暮らしに憧れたのに、気がつくと、ものだらけ。

カメラマンになったのだから、機材や写真が増えるのは当然だし、子供の夢を構えるためには、お金が必要だったりもする。

でも、なんだかなぁ〜と、強く思ったりする。

糸満海人が、ミーカガンを考案し、それが広まり、漁の歴史が急速に繁栄した。

サバニにエンジンが積まれ、さらに、海が広くなった。

文明の利器のお陰で、女である私でも、封建的な世界でも、様々な道が開かれた。

だけれど、道具を手にしたなら、ルールを定め、守らねばならない。

道具を手にしたら、もっと、もっと考えなければならない。

身体を使うか、頭を使うか、心を使うか。