--> 海人工房資料館ハマスーキ

伝統〜海に潜る-アギャー(追い込み漁)〜

陸から見たら、水色、青、深い青と、美しいグラデーションの沖縄の海。
透明度が高く、海中でも遠くまで見通せるのが沖縄の海の特徴だ。

水中でカメラを構えていると、魚の群れが私の眼の前を横切った。

シャン、シャン、シャン・・
遠くから聞こえた音が次第に近づき、あとを追う海人の姿が見えてくる。

水中では、陸上に比べ4倍も音の伝わるスピードが早い。
金属の鎖が付いた脅し棒の威嚇音に驚いたグルクンが、いち早く逃げていったのだ。

先端に結び付けられた梱包用テープをひらひらとさせながら、脅し棒を持った11名の海人が横一列に魚群を追いかける。
口にくわえたレギュレータから吐き出された息が、ゴボゴボっと白い泡が連なって浮上し、横一列の高い壁となる。
水面を泳ぐ海人が垂らす10メートルほどの脅し綱と繋がり、水面から海底の大きな壁が、奥へ奥へと魚たちを追いやっていく。
その先は、海人たちが設置した袋網だ。

まるで、ザトウクジラの群が、円を描くように周りながら泡を吐き出して壁を作り、小魚の大群を1箇所に追い込んでいく「バブルネットフィーディング」という行動と似ているな、なんて思ったりした。

魚群が袋網に完全に追い込まれると、海人たちは脅し棒を放り投げ、海底に設置した袋網や、魚の通り道に使った袖網を外し、魚群の入った袋網を船へと引き上げていく。
海人たちが船から引き上げる力に反発し、大きな袋網の中の魚たちは、逃げようと下へ下へと潜ろうとする。
袋網の形が、大きなクラゲのようにねじれ、広がり、膨らんで、形を変えながら浮き上がっていく。
それが切なくも美しくて、シャッターを切りながら、私も浮上していく。
近づくと、ザザーっと魚が擦れ合う音が聞こえてくる。

魚の通り道に袖網を、追い込む先に袋網を海底に設置し、海人たちが自ら潜って魚を追い込のが「追い込み漁」だ。
追い込みに要する人数や、規模、道具などにより、パンタタカー、チナカキヤー、等名称が異なるが、中でも最も規模が大きい追い込み漁は「アギャー」と呼ばれる。

1892年に糸満海人によって生み出されたこの漁法は、明治後期以降、漁場を南西諸島、九州や東南アジアへと糸満海人の名を世界に響かせていった。
それが時代とともに衰退し、糸満では1970年ごろに消滅。
1900年ごろに糸満から導入された佐良浜海人のみが、現在もその漁法を続けている。

佐良浜の海人は、1960年代にスキューバ潜水の道具を使い始めたが、それまで、この漁法の工程を全て素潜りで行なっていた。
また、沖合で行う漁法なのに、魚群探知機やGPSの使用も割と最近になってからと聞く。
海人たちは、頭の中にインプットされている何百という漁場ポイントを、山立てという技法で探し当てていた。

そのポイントに魚群がいるのか、実際に潜って確認し、潮の流れを考慮し網を仕掛ける。
ポイントを見極める山立て、潮の流れ、魚の習性、潜るスキルに、潮に逆らい泳ぐ脚力、網を引き上げる腕力に、水圧に耐えうる体力と、海や気象、獲物の知識や強靭な身体。
海人たちの計り知れない能力に、私はいつも脱帽するのだ。

その頃青年だったオジィたちは、寄る年波にも負けずに、道具の進化とともに、自らをアップグレードし頑張り続けている。

港へ帰り、グルクンを水揚げすると、大きさによって仕分けし、出荷される。
平均年齢65歳のアギャー漁師・16名(撮影当時)が、県内のグルクンの5割を担っているとは、驚きだ。

海洋環境の悪化などによる資源の枯渇により、漁獲量は減少している。
そして価格低迷など様々な要因により、アギャー漁のシンカ(乗組員)は減少の一途だ。
「これ以上後継者が増えなかったら、このアギャー漁は続けられない・・・」と潜り長は言っていた。

海人の誇りをかけ捕獲した海の幸を、刺身、煮付け、唐揚げ、炒め物、と何品にも変身させる料理上手なお母さんは、
「大の男が1日働いて、(稼ぎが)これだけかねぇ〜」と苦笑いした。

店頭に並んだら、どれだけのお金を払えば食べられるのか?と思うくらい、華やかで豊かで美味しい食卓。
お父さんの頑強な身体は、お母さんと海の幸によって作られ、明日の活力に繋がっている。

今では佐良浜にしか残っていないアギャー漁を「一人技」としてまとめあげた素晴らしい海人との出会いがあった。
沖縄の北部、本部町で、戦後20年経ったころまでアギャーの頭領をしていたゼンエイオジィのお話。

心筋梗塞で倒れ、海に潜ってはいけないと医者に言われ、50歳の頃、頭領の座を他の海人に譲った。
海に潜らずできる漁業を探し、釣り糸を垂らして魚を取ろうとしたけれど、やっぱり潜りたい!

他の漁師らに迷惑をかけないようにと、対象とする魚や規模、道具を変えて、すべての工程を一人で行う「一人追い込み漁」で50代半ばに潜りに復帰した。

舟は、小型のヨットを改造したものに小さなエンジンを乗せて、網はナイロンのものを使い、船内に溜まった水を汲み出すユートゥイは台所用漂白剤の容器をカットして使用し、ゆるゆるのゴムのウエットスーツを着用した。
それでも、昔ながらにミーカガンをつけ、裸足で泳いでいたのが印象深い。

柔らかい木の枠で作られたミーカガンは、今時のゴーグルと違って、水が入ってくる。
呼吸のために海面に上げた顔を覗き込むと、ガラスの中にいつも水が半分くらい入っているのが見えた。

足ひれを履いてしまうと、足の指は使えない。
ゼンエイオジィは、足の指も手のように器用に使っていた。

「なんで潜り漁なの?」
「これしかできないからさあ」そんな会話をしたことがある。

これしかできないのではなく、これを続けると覚悟し、そのやり方を「守る」のでなく「変化させる」ことで、92歳まで生涯現役の海人として、人生を全うできた。

このことは、アギャー漁を「一人追い込み漁」として再スタートした50代半ばのゼンエイオジィの年に近づいてきた、私の大きな励みである。