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第1章 糸満の歴史的成り立ち

 現在の海人の暮らしは、それなりの時代を背負っています。糸満というむら・まちがどのように起こり、発展してきたか、海人の暮らしにどのような変化があったかをこの章で歴史的に俯瞰し、今を生きる海人の「言づて」を理解する一助としました。

1.南山王統期

 南山王統期(1380年から1429年)の糸満漁業に関する記録については、中国・明に進貢船を27回送り、その発着地のひとつが報得川河口であったとされている。

2.琉球王府時代

 1429年に中山が南山を滅ぼし、三山を統一し琉球王府が成立した。中国への進貢は琉球王府にも引き継がれ鮫皮、ヤコウガイ、タカラガイが進貢品として送られた。

1500年頃には糸満沿岸に漁猟のための移住するものが増えてきた。

1737年には造船材確保のため、クリ舟の造船を禁じ、ハギ舟を奨励した。

那覇の若狭沿岸の使用権で糸満と地元那覇・泊との間で何度か権利の変遷があるが1798年に王府は冊封使の来琉に供えて糸満村に使用権を与えた。

沖縄本島海域における難破船の乗組員の救助に糸満漁民の働きがあったこともよく記録に残されている。

1800年頃になると糸満地先の埋め立てが進み漁民集落「門(ジョー)」が形成された。

1862年のフカヒレ輸出量は26,000斤で長崎(出島)の3倍にも上った。

3.明治時代

 1868年には明治政府が樹立され、1879年に廃藩置県が行われて、琉球王府の時代が終わる。1881

年の沖縄県令による糸満視察報告では「糸満は首里・那覇に次ぐ一大集落で、漁獲物は皆那覇に運

んで売りさばかれていた」とある。 

1883年の統計では、兼城間切り(今の糸満を含んでいる)のクリ舟数(ハギ舟含む)450艘(2

位の勝連間切りは120艘)糸満の漁業の発展をうかがい知ることができる。

1874年に最後の進貢が行われ、鱶漁などの沖合漁業から沿岸漁業へ移行し始める。その頃から欧米の貝殻の需要により採貝漁業が進展する。

 1884年玉城保太郎がミーカガン(水中眼鏡)を考案し、これにより採貝漁業や追込漁業が大きく進展した。

1892年金城亀がアギヤー(追い込み網漁法)を考案し、グルクン等磯根魚類の漁獲能力が大きく向上し漁場の外延的拡大がなされた。

1900年に小禄村大嶺の漁民との間でチービシの漁場利用を巡る騒動が起こり、その後、北部、中部地域でも同様なことが起こった。

1092年の糸満村の統計は、漁業専業者数(男)2,155人(全沖縄の62%)漁業専業者数(女)カミアキネー[販売業]:1,820人(全沖縄の99%)。漁業生産額(全沖縄の63%)。全沖縄の50%以上を漁獲した魚種はサメ(81%)、トビウオ(72%)、グルクン(86%)の他6種類。

 質屋の件数14、湯屋7、旅人宿2、料理屋11、飲食店25、屠獣栄営業39、鳥獣肉販売店49。

1902年瓦屋の建築規制が解禁され、これから13年後には糸満の家屋の6~7割が瓦葺に建て替えられた。

 1903年には糸満浦漁業組合が設立された。

1903年に地租改正が行われ、また増税策もあり、貧困農民が増え、雇い子が増えていった。

 1905年水産学校(文部省認可)が糸満村に設立される。

1907年県内に漁業権が設定されるが糸満海人に対しては入漁権が認められた。

1907年台湾基隆庁が糸満・八重山からのテングサ漁業者数を250名以下に制限。

1908年町村制施行により兼城間切糸満村から分離し、県内唯一の糸満町になる。

1908年糸満海人に対する入漁拒否騒動が本部村漁業協同組合との間で起こり、その後浜比嘉や小湾などでも起こる。このことがひいては県外への出稼ぎ漁業、南洋諸島への出漁を促した。

1909年県内に動力漁船(カツオ一本釣り)が初出現する。これにともないこれまでの糸満漁業の優位性が相対的に低下する。

4.大正時代から戦争前夜まで

 1915年本土への出稼ぎ漁業が始まる。

1916年海外出稼ぎ漁業(主に追込漁)大戦勃発のころまでに東南アジア、南洋諸島を中心に拡大。

1935年船溜まりが埋め立てられ、漁船、漁具の保全機能が向上し、市場規模も拡大した。

 1937年糸満のサバニ隻数331隻(全県2,430隻の14%)、漁業生産高の51,411円(全県のサバニによる漁獲高の9%、市町村別には3位、)サバニ隻数は50年前より120隻も減っているが、糸満海人は県内外の沿岸地方に移住しており、その転出による影響や国内外への出稼ぎによる影響も少なくないとしている。

当時の糸満のアギヤー組数地元操業6組(うち2組はパンタタカー(主にリーフ内でする小型追い込み網漁、県外出漁7組、海外出漁2組。

 糸満における舟大工(サバニ建造業者)は、明治、大正生まれの者だけでも少なくとも30名はいた。(上原姓12名、玉城姓9名、その他9名)

サイパンなど南洋やシンガポールに渡った海人が多数いた。サイパンとポナペでは南洋ハギとよばれるサバニが糸満海人の手によってつくられた。

5.戦時中

 沖縄戦が始まり、制海権を奪われた日本軍は、チービシの米軍砲台の奇襲と神航空参謀の沖縄脱出に糸満海人を召集した。

6.戦後から復帰まで

 1945年11月9日糸満に住民受け入れ事務所が設立され、収容所から住民が戻って来る。

1946年6月 ハーレーを開催。

1947年サバニにエンジンが搭載されるようになる。

1950年沖縄の長者番付に糸満海人が1位と3位になる。

 1952年4月28日 サンフランシスコ講和条約発効 沖縄・奄美諸島が日本から分離され米軍の施政権下に入る。

1958年高瀬の埋め立て地に「鯨体処理場」が稼働。

 1962年インドネシア海域で第一球陽丸がインドネシア海軍機に銃撃され、1名死亡、3名重軽症。沖縄の船舶旗の在り方が問題となる。

1967年、琉球船舶旗として日章旗の上に琉球表示の三角気を掲げることで日米政府が合意。

1968年には、那覇軍港がコバルト60に汚染されていることが発覚し、魚価の暴落が起こった。

7.復帰から今日まで

1972年5月15日沖縄が本土復帰。

1980年代初めころパヤオ漁が始まる。

1984年西崎埋立工事竣工。

1989年ソデイカ漁始まる

1995年潮崎埋立竣工。

210年糸満の漁業者数141名漁業生産額585万円。

2012年サバニの漁船としての建造が終了する。

2012年11月17日「第32回全国豊かな海づくり大会」が開催される。

糸満漁業関連歴史年表

1380  南山王統期。当時、南山王は明に進貢船を27回送る。進貢船の発着拠点のひとつが報得川河口であった。~  糸満地先海域は、三山の中でも広大なイノー(礁池、ラグーン)を有していることから、漁場条件としては恵まれ    ていた1429 三山統一1434 王府、進貢品に鮫皮も含める(この年4,000張、1436年3,000張)鮫皮の他に、螺殻(ヤコウガイの殻)8,500個、海巴(タカラガイ)550万個も同時に送られた1500 この頃より糸満沿岸へ 漁猟(採貝等)のため移住する者が増えてくる1609 薩摩藩、琉球を攻略.2年後には全域の検地を終了。その際クリ舟、ハキ舟も含める1613 薩摩藩、王府に対し、男も農耕に従事させよと通達1673 泊・若狭沿岸漁場の使用権を糸満海人が年間100貫文の上納銭で請ける1692 泊・若狭沿岸漁場の使用権は地元泊村に請銭240貫文で移っていたが、糸満海人が同額で再度請ける1729 泊・若狭沿岸漁場の使用権は那覇・泊の諸士が上訴し、泊・若狭町村に再度移る1737 王府、唐船の造船材確保のためクリ船の造船を禁ずる(流刑罪)。ハギ舟を奨励1755 泊・若狭沿岸漁場の使用権は冊封使の来琉に備え糸満村が請け。1757 泊・若狭沿岸漁場の権利は那覇・泊へ返還される1775 王府、渡名喜島の漁師が糸満でサメ釣り漁法を習得し、同島民に教えたとして称える1787 王府、糸満海人が慶良間沖で難破船の乗組員を救助したとして褒章1792 王府、糸満海人が読谷山沖で難破船の乗組員を救助したとして褒章1798 泊・若狭沿岸漁場の使用権は冊封使の来琉に備え糸満村が請ける1800 この頃より海浜の埋め立てが進み、舟溜りを有する漁民集落「門(じょう(通り))」が形成されるようになる1808 糸満海人大城ら13名が浙江省に漂着。1811にも糸満海人(4隻8人)が福州に漂着1862 フカヒレの輸出量26000斤。長崎(出島)の3倍1874 最後の進貢により、糸満漁業はそれまでの沖合漁業中心から沿岸漁業へ移行し始める。その頃から,欧米の貝殻の需要により採貝漁業が伸展する1879 琉球の廃藩置県1881 県令による糸満視察報告. 糸満は首里那覇に次ぐ一大部落で、漁獲物はみな那覇に運んで売りさばかれている。1883 兼城間切のクリ舟数(ハキ舟含む)450艘(2位勝連間切120艘)1884 糸満海人玉城保太郎、ミーカガン(水中メガネ)を考案。これにより採貝漁業や追込網漁業の伸展に大きく寄与し   た1891 シムチキヤンラー(霜月崩れ)による海難事故発生(旧11月4日),(死亡者、行方不明者80余艘、100余人)1892 糸満海人金城亀、アギヤー(追込網漁法)を考案。これによりグルクン等磯根魚類の漁獲能力が大きく向上.漁場の外延的拡大がなされる1900 糸満と小禄村大嶺の漁民の間で、チー干瀬の漁場利用を巡る現場騒動が起こる。その後、北部、中部地域でも惹起   するようになる1901 糸満海人(4艘20人)残波沖で鯨を獲る(10尋大、曳航日数3日、売払額300円)。1902 糸満村漁業の勢力:村の戸数1,245戸、人口5,578人 ( 1901年の警察署調査では、漁家786戸,4,867人、 農家314戸,1970人)漁業専業者数(男)2,155人(全沖縄の62%)。漁業専業者数(女;カミアキネー(販売業)1,820人(全沖縄の99%)。漁業生産額91,158円(全沖縄の63%)。全沖縄の50%以上を漁獲した魚種は、サメ(81%)、トビウオ(72%)、グルクン(86%)(以上100トン以上)の他6種類。学齢児童数 1,167人、うち就学児童数 320人(男167人、女157人(男女とも寄留人の子が多い))。(質屋14、湯屋7、旅人宿2、料理屋11、飲食店25、屠獣営業39、鳥獣肉販売店49)1902 王府時代から1889年までは、士族以外の平民は瓦葺の家は建ててはいけないと規制されていたが、糸満村   ではこれが解禁されてから13年後には、6~7割は瓦葺に建てかえられた1903  糸満浦漁業組合設立  地租改正され、またその後増税策もとられ、貧困農民が増え、雇い子(男、女)も増えていく兼城間切の寄留人数:1899年123人→1919年1,171人。雇い子(送り出す側からは「糸満売り」)は、男の過剰人口を吸収しやすかったアギヤーの場合、そのほとんどが契約期間10年以下、20才までの年季奉公の形態となっていたが、大戦後の新たな社会制度下では違法となった1905 水産学校(文部省認可)が糸満村に設立される1906 第1糸満丸、第2糸満丸(各80トン、帆船)によるフカ延縄漁業が導入される。しかし、間もなく両船とも座礁事故等により操業終焉1907 県内に初めて漁業権が設定され、その際、特に糸満海人に対しては他地区への入漁権が認められるようになる。  (これまで糸満海人が行ってきた入漁形態を権利化することは、新たな漁業制度(漁業法)の趣旨に合致していた) 台湾基隆庁、糸満・八重山からのテングサ漁業者数を250名以下に制限(それまでは300〜400名が出漁していた)1908 町村制施行により兼城間切糸満村から分離し、県内唯一の糸満町になる1908 糸満海人に対する入漁拒否騒動が本部村漁業組合との間で起こり、その後浜比嘉や小湾などでも起こる。この   ことがひいては県外への出稼ぎ漁業、南洋諸島への出漁を促した1909 県内に動力漁船(カツオ一本釣り)が初出現する。これに伴いこれまでの糸満漁業の優位性が相対的に低下1915 本土への出稼ぎ漁業(追込網漁)始まる。戦勃発の頃までに太平洋岸は千葉県、日本海側は福井県にまで拡大 1916 海外への出稼ぎ漁業(主に追込網漁)始まる。大戦勃発の頃までに東南アジア、南洋諸島を中心に拡大1919 糸満と他地区の間の入漁権問題は、条件付きで23地域に入漁できることで決着1923 県内のカツオ動力漁船数119隻(糸満船は2隻)。操業海域は南洋諸島にまで拡大。この年の県内のカツオ漁獲高は200万円、鰹節生産額は294万円。この頃の全県のサバニによる漁獲高は約60万円1935 船溜まりが埋め立てられ、漁船・漁具の保全機能が向上するとともに魚市場規模も拡大(当時の埋立図)。1937 糸満のサバニ隻数331隻(全県2,430隻の14%)。漁業生産額は51,411円(全県のサバニによる漁獲高の9%、市町村別には3位)。サバニ隻数は50年前より120隻も減っているが、糸満海人は県内外の沿岸地方に移住してきており、(大小合わせて20地区)、その転出による影響や国内外への出稼ぎによる影響も少なくないであろう   当時の糸満のアギヤー組数 : 地元操業6組(うち2組はパンタタカー:主にリーフ内でする小型追込み網漁))   県外出漁7組、海外出漁2組戦前  糸満における舟大工(サバニ建造業者)は、明治、大正生まれの者だけでも少なくとも30名はいた。(上原性12名、玉城性9名、その他9名)1945 終戦糸満漁業を取り巻く世相 : 食料等の配給、漁獲物の供出、密貿易、ダイナマイト漁、不発弾等スクラップ業戦前~戦後 糸満における蒲鉾製造業者数は累積で35経営体もあって、原料はサメ、グルクン、トビウオ、後年はマグロ等ほとんどが糸満産であった。2012では、11経営体(全県で32体)、原料もスケソウタラ等外国産が主で県産魚はほとんど利用されなくなっている1947 この頃から サバニにエンジンが装備されるようになる。1950 沖縄の長者番付に 糸満海人が1位と3位になる1952 琉球政府発足。米軍港荷役作業従事者が多くなるなどにより、漁業従事者が減る。糸満のアギヤーはなくなり、パンタタカーが数組残った。そして、マグロ漁業や2,3人でも操業出来る底延縄漁業が盛んとなる1958 高瀬の埋め立て地に「鯨体処理場」が稼働する(その後資源が枯渇し3年ほどで閉鎖)1962 インドネシア海域で沖縄の第一球陽丸(乗員23名)が国籍不明船としてインドネシア海軍機に銃撃され1名死亡、3名重軽症傷1967 日米両政府が琉球船舶に琉球表示の三角旗月の日章旗を掲げることに合意1968 那覇港でコバルト60検出 魚価暴落1972 本土復帰 糸満に水産関係機関・団体及びインフラが集約され、一大水産都市として進展する1985 このころからパヤオ漁始まる1989 ソデイカ漁始まる2010  糸満漁業の現状。漁業者数 141名(糸満市就業者人口の0.7%、全県漁業者数の 4.5%、市町村別順位8位)漁業生産額 585百万円(うち72%がソデイカ漁業とパヤオ漁業)(糸満市全産業生産額の0.7%、全県漁業生産額の 5.8%、市町村別順位 7位)2012  漁船としてのサバニの建造はほとんどなくなる2012  11月17日,18日 第32回全国豊かな海づくり大会が糸満で開催される