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第10章 1.サバニ造りの技術を繋いでいきたい

大城 清

 大城清さんは、糸満でサバニを造る職人の二人の内の一人である。父親はサイパンで海人をしながら、漁師に頼まれて南洋ハギを造っていたという。沖縄に引き上がて来てからは親子でサバニを造っていた。サバニの造船が下火になる頃からはFRP船も造った。近年は、ハーレー用のサバニを造っている。

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大城 清さん
氏名:大城 清生年:昭和25年門中:勢理腹屋号:四男前兼久父親の氏名:大城〇〇父親の生年:大正元年

―大城さんの生年月日、門中名、屋号を教えてください

昭和25年3月1日。門中は勢理腹。屋号は四男前兼久。

―最初にお父さんの話を聞かせてください。

父は大正元年3月10日生まれ。糸満で海人をやっているんだよね、

父の結婚はわったーおかあで3回目みたいよ。最初のおかーと子供ができなくて2番目に結婚して長女と長男ができてそれから南洋にわたっている。その時、家族は糸満にいた。

長女は沖縄戦でよ、伊敷の部落で爆風で飛ばされて亡くなったという話。長男がそのように言っていたね。兄は戦前生まれで今、生きとったら81,2歳ぐらいになるかな。昭和14年だったかな。 父は戦後引き上げてきてから今のわったーお母と結婚してるわけよ。

―お父さんが南洋にいた時の話を聞かせてください

南洋にいた時はカツオ船に乗っていたみたいよ。パラオ、サイパン。終戦はサイパン。パラオなのかこのこの辺がわからんけどね、港があるところに移動するから、そんな感じではあるね。カツオ船には沖縄の人も多く乗っていたようだ。父は他の皆さんが釣れなくてもよく釣ったという記録もあるよ。南洋ハギと呼ばれるサバニを50隻ぐらい造ったという新聞記事がある。サイパンなのかパラオなのか、どこで造っていたかは分からない。

―上原謙さんの父親上原新太郎さんはポナペで南洋ハギを造っていたと言いますが清さんの父親がポナペに行ったという話は聞いておりませんか。

ポナペの話はないね。サイパン、パラオの話よくしよったね。ボルネオの話もしたよ。こういう話をしていたね。自分の舟を造ると、別の海人が譲ってというのが何回か続いて、それから本物の船大工になったと話していた。

―南洋ハギを造るに至った経緯はどうなのでしょう 

南洋ハギを造れるようになったのは、カツオ船は年に何回か船の点検のためにドックにあげるさ。その時に内地の船大工、吉田さんという人が和船を造っていた。父は船の修理の手伝いをやっていた。この時に和船の作り方をヒントにサバニの形を作っていった。これが南洋ハギの始まり。

―材料はその島から調達できたのでしょうか 

内地から杉材が送られてくる。向こうで材料は不自由しなかったはずね。家も造るさ。

―舟の呼び名について

サバニにも地域別の呼び名があるわけだよ。本家本元は糸満だけど。糸満ではハギで通るさ。徐々にあちこちで作っていくと南洋ハギ、糸満ハギ、平安座ハギ、伊江島ハギとなるわけ。

舟の形状、構造による作りの違いの呼び名があるわけよ。一本の木から作るのはマルキン。張り合わせの明治の中頃に考案されたという今のスタイルの造りは、ハギンニになる。

用途別の呼び方もあるさ。イノーアッキキサー、フカアッキサーなど。

―漁の形態によってサバニの形も違ってくるのですか

サバニ、サバニと言うけど用途別の造りがあるわけよ。例えばアギヤー。あれは舟がでっかいさ。反りもそんなにつけない。底は大きめに広く。追い込みの網や魚を積むからね。

フカアッキーは深い所に行く船。外海、内海との違いでイノーとフカアッキーの違いが出てくる。フカアッキーはイノーアッキより一回り小さい。これは幅が3尺3寸、長さが23尺5寸と規格が決まっている。若干の違いはあってもその寸法には大きな違いはない。

フカーアッキサーには反りがない。ちょっと長め。網を多く積むから。扱いづらい。波のあるところで性能がいい船。ムサガネという言葉がつく。時化に強い。性能の良い船という呼び名になっている。〇〇。

イノーアッキサーというのは時化に強くなくても反りが深いと風に煽られる。それがない。わりかしまっすぐ。

アギヤーの船になってくるとサバニの形はない。船の形状、容姿による呼び名。出来損ないはブスと言う。

これを整理整頓して、何でサバニなったのかという疑問が頭にあったもんだから、これを造りの違いを並べていたらこういうものが出てくる。これをしっかり分からないと何故サバニという呼び名になったのかが分からなくなる。

―ハーレー船はどういうタイプの舟ですか

今は追い込み漁用のサバニ使う、アギヤータイプのクラスになっている。

―サバニの名称について教えてください

サバニの名称には、イノーキ、フカーキサー、アギヤー船があるさ。そしてサバアッキというのがある。フカ漁船。サバというのはフカサメのこと、アックというのは漁に行くこと。私なんかはサバアッキンニと言っている。

長老なんかに言われたよ。又聞きになるけどサバニじゃないよ本来はサバンニだよと。

フカ漁からついた名前とも聞いている。明治の中頃のサメの水揚げを調べていると、年間600トンの水揚げがあるよ。そんな歴史的背景もあるのではないか。

―サバアッキの船の形というのはどんな形ですか

おそらくフカーキサー。2,3日フカ漁に行くときは沖泊したって。伊波普猷の本によると明治以前や明治に入ってからも大量にフカ漁が行われている。中国にフカヒレが送られるわけ。糸満の漁業にとって収益率の高い花形の漁業であった。明治以前から琉球が中国にフカヒレ納めている記録も出てくるさ。それから言うと、サバニというのは全部の総称。サバアッキからついた言葉だと思う。

フカヒレは中国に持っていく。肉は干物。塩漬けにして離島では貴重な保存食だった。それで油は灯油。そういうことでフカ漁が盛んに行われていた。糸満だけでなくてあちこち。糸満で名前が付いたのかどうか分からないけどおそらく糸満でしょう。

サバニの名称についてはスンニとか色々な話が出てくるけど学者の皆さんの話はおかしいことに漁業の一番盛んだった糸満からの話がないから私はおかしいなあと。糸満が王朝時代から見ても記録的にも盛んなのに北の島々からスンニがどうのこうの。伊波普猷がこういう話を本にしたけど結論づけてはないよ。こういうのは整理整頓しないといけない。

―お父さんはサイパンから沖縄に何時頃引き上げてきたのですか

いつ頃帰ってきたか分からん。

―お父さんは糸満に引き上げてきて、いつ頃から再び舟造りを始めたのですか

すぐ始めたのじゃないかな。材料はあちこちから切れっぱしを集めてきたようだ。2×4まで使ったような話だけどね。

―造ったのは南洋ハギ?

親父は戦後、材料もないし、金もない。経済がちょっと回復して杉材が手に入ってくる。だけど本ハギ舟になるとお金がない時代だから高すぎて作りきれない。だから南洋ハギが多かったよ。庭先で2艘並べて作っていた。手伝いもつけて何名かでやっていた。戦後の漁業の復興は南洋ハギから始まっている。

―お父さんの時代に造ったサバニの数は約何艘ですか

約50艘。一年に5,6隻。自分が親父と一緒にやっている時も注文が切れたことなかったよ。

私が中学を卒業して初めて一緒に作ったのは久米島から注文のあった南洋ハギ。トビウオ漁に使うと言っていた。親父と一緒に何艘作ったかな。和船みたいなでっかい南洋ハギを2艘造った記憶がある。あとは本ハギ。私が17歳の年の新聞に自分が手伝っている写真がある。

自分が18,19歳の時から親父がパーキンソン病を患い、それ以後は私一人で造ってきた。

―その後のお父さんの状況は

仕事出来なくて生活保護を受けていた。病気はどんどん毎年進行して悪くなる一方で67歳で亡くなった。

―父親からどのような教えを頂いたのでしょうか

日々一緒にやってきたから丸暗記。読み書きが出来ないからメモして残すということが出来ないわけよ。そのかわり頭にはしっかり覚えている。

―サバニの作りはどうなっているのですか

これが非常に面白い。明治の中頃にはぎ合わせが考案された。近代化で西洋の技術も取り入れた。造船はイギリスの技術が特に取り入れられた。製図して計算もするわけよ。

サバニはどっちの技術を取り入れるかは関係ない。中に骨組みらしきものもない。幾何学的という言葉が当てはまる。規則正しく法則に則っている。不思議でもある。欧米諸国から入った技術でもなければ和船系の技術でもない。全く独特の造り。中国にもない。山原船なんか〇〇。

いまの大型船作るのと一緒。船の長さ幅が決まれば適当に彫っていた。欧米諸国から入ってきた技術は製図。中国から入ってくるのは〇〇。1700年代の初め頃には中国から山原船の作り方を習ってきている。長さと幅、深さが決まれば作れる。

―曲線はどうやって出していくのですか

薄い板で形を作っていくからさ。それから型取りする。そういう方法なんだよ。図面を通してないだけであって。

最初は板取りがある。要所要所では幅の寸法を入れるようになっている。何隻も作ってはじめてこの幅がいい、この角度がいいというのが基礎になっているんでしょう。

―これは大工さんによって違ってくるのですか

違うよ。基本的には墨の入れ方にしろ技法にしろ一緒なんだけど大工によって若干の違いがある。後ろが大きいとか底の幅の入れ方も違う。角度の違いも出てくる。底が狭くてグラグラするけどそれがいいわけさ。非常に意味のある作りよ。

なぜ細身の舟で外洋を走れるかというと風を受けたら船は当然倒されるようになるさ。これを人がバランスを取って反対側に乗ってこの吊り合いで走っているわけよ。

ヨットと全く一緒。だけどセンターポートがない。固定ラバーがない。全部手でやるさ。マックスで時速8ノット、それ以上走ると人間では無理があるからよ。傾いたとき大きな体積の〇〇が出てくるわけよね。バランスが非常に取りづらくなる。人間が大きく動かないといけない。風の加減、バランスで受け流しが出来るようになれば、センターポードがなくても走っているさ。非常に高度な船の技術が必要。素人が乗れるような船じゃないよ。

風の力を効率よく受ければどこでも行けるさ。例えば座間味から那覇まで向かうと後ろからやや横波を受けるわけよね。風も当然後ろから来るさ。風も倒そうとする、波も倒そうとする。これは技術がなければ絶対に対処できない。わったーはここ何年か負けたことがない。舟を作り変えた。帆を固定すると強い風が来ると当然傾くわけさ。高い波を受けると当然傾くさ。漕げるわけがないよ。

最近は、わったーがちゃーまかしー。昔のスタイルで走るのは伝説的な走りだったと。〇〇。わんは昔の人からたくさん話聞いているからよ。〇〇。記録にも残っている。上半身半身外に出してどーのこーのって。

―帆かけサバニには何人乗るのですか

帆を上げ下げする人必要だからふたりぐらい。3名以上になると儲けがない。

―南洋ハギの開発者について

南洋ハギはうちの親父が始めたのではない。謙さんたちの舟の進水式に南洋にいた人が来ていたわけよ。この人が言うには、新太郎さん(上原謙さんの父親)が先だと言っている。

うちの父が嘘を言わないし、親父の話はとても具体的だ。

その当時どうだったかということだね。うちの親父は嘘をつく人じゃない。素人で船造り始めた。糸満市史の民俗編なんかにあるように分厚い床板、杉の床板を見てから試しに作ったんでしょう。これを見た本土の丸木舟の船大工がこうやって作れるとプロが作るようになっていった。これと似て、うちの親父は手先が器用で和船の作りを見てこれをヒントに南洋ハギ造るようになった。そういう話。〇〇。

戦後、糸満に帰ってから本ハギは上原謙さんの父親から習っているわけ。南に年の取ったおじいとおばあが庭先で船を造っていた。この人たちから習っていたと大城昇達は言っている。〇〇。

―漁船としてのサバニの注文が来なくなったのは大体いつ頃ですか?

私が18、19歳の頃のこと、これからはFRPの時代になってくると思った。内地(宮崎)に材木買い付けに行くと造船所で製材するけど、そこではFRPによる造船が始まっていた。復帰前だった。その時期にFRP船のことを知っていた。24、5歳頃に糸満のハーレー船がFRPになった。その時から漁船としてのサバニはないなと思っていた。それ以後、FRPによる和船系の船もよく造ったが失敗も多かった。

―船の構造体はどうするのですか 

木枠を作るさ。和船系は図面を読み書くのが必要になってくる。24、5歳頃から完全に和船系に切り替えたが失敗だらけ。この時代からは完全にFRP船の時代よ。これが漁船としてのサバニの役目が終わった時。ノボルたーは一番最後まで作っていた。私は、時代が変わる時に早くFRP船に切り替えた。最初は注文もあってサバニの形のハーレー舟も作っていた。

発泡スチロールみたいのを貼ってからサバニを作るような感じで。これではコストがかかるので木枠を作ってやった。

それから大型の船も造った。最初は水産高校の向かいでやっていた。

―再び木のサバニを作ったのはいつ頃から?

木のサバには全くやめたわけじゃない。昔はハーレーの専用舟というのはどこもないよ。豊かになってくると各地域で専用のハーレー舟を用意するようになった。その需要が出てきた。奥武島で造ったハーレー舟がいっぱい出たんだけど。やっぱり糸満の舟じゃないと困るという人も来る。何年にいっぺんか。馬天、中城、東村、読谷などからの注文がポツポツとあった。

―奄美からの注文はないですか。あそこにもハーレーはありますが

奄美からの注文はない。奄美にも船大工がいる。沖縄のサバニに似たような作りだけどサバニじゃないからあいの子。和船系の船の作り。見た感じはサバニ。構造的には和船。南洋ハギとも違って平底。

―奄美のハーレーについて

いつ頃から奄美で船漕ぎをやるようになったのか。恐らく、いちまんちゅが向こうに行ってからでしょう。糸満や沖縄に帰って来られない人が現地に定着したと思う。向こうで舟が造れないから似たようなものを作ったんじゃないかなと思う。

―最近、注文が来るサバニというのは昔と同じ形のイノアッキーの舟ですか

そうでもないけどね。昔とは乗る人の体型も違うから長さと深さを大きめに造っている。

―今後のサバニの注文はなんとかなりそうですか?

使い道を広げないといけない帆掛けサバニ振興会の活動をやっているのはその意味がある。

後継者問題がよく出るさ。いちまんちゅのみんなの問題だよって。この仕事やって生活も出来ないのに必要があるかって。世の中が必要としないものはなくなっていい。

船としての性能を見た場合にはヨットとカヌーをかけ合わせたような、マリンスポーツとしては一級品。

なんとか今の時代に活かせないかと考えている。観光地として十分需要が見込めるけどインストラクターが必要となってくる。舟を扱う技術が必要だから。使い道を広げることによって需要の拡大が見込めると。需要があれば仕事があって後継者問題も片付いてくる。船が増えくると置き場所の問題も増えてくる。こういう問題を片付けきれるのは糸満しかない。

―インストラクターは養成できそうですか

養成するために週2回ぐらい練習やっているよ。チームとしてね。みんな上手にはなってくるけどこれをマリンスポーツとしてビジネス化していこうとした場合にまだまだお客様を呼び込める体制づくりが出来ているわけじゃないさ。いかにしてやっていくかの問題。稼いで儲かる仕事にならないと若い人たちが定着するわけがないさ。今からサバニを本当に残そうと思えばいろんな課題があるよ。わったーができるうちにやっておかないとこれほったらかしたら誰もやりきらんよ。〇〇。

―木造の中古サバニの売れ先

FRPのサバニが出る前は中古のサバニが高値で売られていたが、FRPの船が出てきてからは全く売れなくなった。

今では、漁業の形態がぜんぜん違うよ。昔はサバニではえ縄とかを沿岸でやっていた。復帰後、漁港整備が出来て船はどんどん大型化してくる。パヤオ漁とか浮きはえ縄とか。稼ぎが良い方向にどんどん変わってくるさ。パヤオでカジキ、マグロ釣れたものが今度はセーイカ漁が30年前ぐらいから出たもんだから。キロあたり千円とか最初から高かったよ。一時期安くなったけど持ち直した。今の時期1本1万2、3千円。これを200本、300本。時代とともに漁業の形態が変わってくると船もどんどん変わってくる。

近場のパヤオで3トンクラスの船になり、次が5トンクラス、その次に10トン未満。今では15トンクラスにとどんどん船が大型化していった。

―FRPの舟を造るようになって設備投資も大きかったのですか

若い時には夢が大きいわけよ。自分の資本力を考えないで勢いだけでやって破産寸前になったこともある。

あの時代はむちゃくちゃな時代で全国的にそうしないと潰れている。競争、競争で技術は身についてきた。だけど原価割れの仕事ばっかし。船1隻作ったら1000万赤字だったとか。

―ヤマトの造船所は儲かっているのでしょうか

みんな大変よ。何らかの支えがあった造船所しか残ってないね。プレジャーボート作っているとか。漁船オンリーの造船所はほとんど潰れている。この仕事はキツイ、汚い、儲からない。若い子がついてこないさ、今人手不足、忙しいよ。どんどん高くなっているね。何千万単位よ。

この状態になったのは時代の流れとともにうみんちゅが設備投資やってから儲ける時代になっている。半端じゃないよ、

今、尖閣に監視に行く船には燃料代乗組員1日日当2万円。船は1日5万円。経費は全部国が出すわけよね。組合の皆さんはこれを順番制でやっているわけよ。獲ってきた魚は自分のもの。不審船があれば写真撮影して収める。うみんちゅは、セーイカで儲かるわ、こういうのはあるわ。〇〇。

―糸満のアナギ島近くに造船所がありましたね。そこは木造の船を作っていたのでしょうか

白銀堂の下には越来造船。山原船を作っていた越来さん。それから木造の船を造っていた川端造船。糸満造船の経緯は分からないけど2つを買い取っている。

いちまんちゅはサバニをつくっているから大型の漁船は造っていないよ。大きな漁船を造っていた人たちはいちまんちゅじゃなかったよ。

―糸満の漁業の盛衰について

戦後はヤトイングヮーが雇えないからそれが追い込み漁の一番の衰退原因だよ。いちまんちゅはどんどんうみんちゅ離れしてヤトイングヮーが残った。この人なんかが踏ん張って頑張っている。ヤトイングヮーはコネもないから海以外行くところがない。糸満に住み着いた人たちが頑張った証拠が結構あるよ。ジンブンないからうみんちゅしていると言われたりもした。

糸満の歴史をよく見てみるとこういうのも残しておかないといけない。勇敢な話ばかりではない。やることはいっぱいある。

糸満 海人工房・資料館 | イベント情報

左 大城清 右 上原謙

聞き取り年月日:2022年1月

聞き取り者:崎山正美