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第10章 2.親子二代でサバニ大工

技術の継承を危惧

現在、糸満市におけるサバニの伝統的な製造技術を伝える「舟大工」は二人だけとなっている。その伝承者の1人が、市内南区で「大城三味線店」を営む店主の大城昇さんである。父正喜さんの代からの親子二代にわたる舟大工である昇さんに、父親のことやサバニ造りに関することなど、あれこれを聞いてみた。

話者 さん

 父正喜さん(大正15年生)、母トミさん(大正15年生)の二男として、1951(昭和26)年に糸満町の南区で生まれる。

中学卒業とともにサバニ大工となり、本ハギ、南洋ハギの製造技術を継承。これまでに300艘近くの木造サバニを製造。

父正喜の元で舟造りを覚える

昇さんの父正喜さんの実家は屋号〈〉。現在の糸満ロータリーから東に少し行った所にある。昇さんの祖父に当たる松さんは戦前この場所で床屋を営んでいた。

「うちの松オジーは戦前から散髪屋。南洋ポナペにも行っていて、そこでも散髪屋。〈新前兼久〉の家では、オバーのカツも親父も南洋に行っている。親父はそこで兵隊にとられた」

戦争が終わり、南洋から糸満に引き揚げてきた父正喜さんは三味線屋を始めた。

「親父は戦後母と結婚。母の実家が三味線屋だった。母の旧姓は仲本。仲本の家がいつごろ糸満にきたかは分からないが、この(現在の昇さん宅)近くで三味線屋をやっていた。母方のオジーの名前はセイトクだったかな。親父はそこで修行して三味線屋を始めた」

昇さんによると、正喜さんがいつごろから舟造りをするようになったかは分からないが、昇さんが幼いころには双子橋近くにある自宅の敷地にはフニヤー(舟屋)があり、正喜さんはそこでサバニを造っていた。その傍らで幼い昇さんは木切れを使って小さなサバニやボートを作ったりして遊んでいたという。

「親父は、(大城)松助さん(次男新前兼久/明治45年生)に舟造りを習ったというようなことを話していた。松助さんは親父の叔父さんにあたる。松助さんも南洋帰りで、南洋ハギは南洋で自分が考えた。南洋から(南洋ハギの技術は)私が持って来たんだよと言っていた」

父の見習いになり、4年目で南洋ハギを造る

中学生になると、昇さんは学校から帰るとフニヤーに行って、道具類を磨いたりするなど、正喜さんの仕事を手伝うのが日課となった。そして、中学卒業と同時に正喜さんの元で船大工の見習いとなった。船大工になって4年目ぐらいからは独力でサバニが造れるようになっていたという。

「初めは南洋ハギから習ったんですけどね。それが完全にできるようになってから本ハギを習った。親父は(舷側板を)曲げるときには気を付けなさいと言っていた。うちの親父は木を曲げるのが上手くてね。他の人は曲げるときに割れることがあったけど、うちの親父は割れたことがない。工夫があったんでしょうね。でも人には教えない。私にも自分の体で覚えなさいと言いよった」

舟が生まれる

「舟が生まれる」。新しいサバニが出来上がることを昇さんはこう表現する。満足のいくきれいな舟が生まれるかはこの曲げの技術次第だと言う。さらに昇さんはきれいな舟とは、格好だけでなく波に強い舟でなければならない、と強調する。

サバニ造りで最も難しいとされるのは、舷側板を曲げていく技術であるという。板を損なわないように、熱を加えながら時間をかけながらゆっくりと慎重に曲げていく作業は、「舟大工」の力量が試される工程である。

「きれいな舟が生まれるかどうかは曲げで決まってくる。曲げるのが一番肝心ですね。曲げるときはお湯をかけながら少しずつ曲げていく。かけるお湯の量とか、タイミングとか自分で考えながらやる。木は一つ一つが全然違う。同じ木だったらいいけど、この木は堅いなぁとか、曲げにくいねぇとか。時間をかけながら曲げていくんです」

本ハギが板にお湯をかけながら曲げていくのに対し、南洋ハギは板から少し離れた所にトタン板を置き、そこで火を焚いて板を曲げていく。

「南洋ハギは曲げるのが特に難しい。お湯じゃなく火を燃やして曲げる。トタンを曲げて火を燃やして。木に引っ付けたら木が燃えるから木から離して。このとき木はいつも濡らしたタオルや布などで拭いて湿らしておく。そうしないと、火が木にパッと燃え移ってしまう。火の加減を見ながら、木を曲げていく。南洋ハギの板材は厚みがないから、曲げるのや底と外板を合わせるのが難しい」屋内, 人, テーブル, キッチン が含まれている画像

自動的に生成された説明南洋ハギづくり。トタン板の上で火を焚き板を曲げる工程 (2012年、上原健次氏撮影)

舟の注文が絶えなかった

昇さんが父正喜さんと舟造りをしていたころは、エンジンを積んだサバニを利用して漁をする人が多く、舟の注文が絶えなかった。舟の大きさは幅で決まり、注文の際ウミンチュは舟幅で大工に指示をした。

「舟を注文するときは、何尺の舟造ってと、ウミンチュは言う。これは幅のことで、何尺って言えば、もう舟の長さは決まっている。大きさは自分がやっている漁に関係していて、はえ縄やっている人はちょっと大きめの舟。イノーアッキする年寄りは小さい舟を造った。普通の大きさは5尺。そ

れより大きいのが6尺。一番大きいのでは8尺の木造船を造ったことがある。宮古まで行くはえ縄船だった。新聞にも載ったよ」。

「親父は60歳ぐらいまで舟を造っていた。親父とやっている時分は注文がたくさんあった。注文が次から次へと来るから、木材も何年分とか、何隻分って買っておいて、すぐ使えるように置いていた。1年分ぐらいの注文がありましたから、舟主は順番待ちでした。急ぐ人は順番が前の人と相談して、順番を交換してもらったりしていました。うちは与論や沖永良部からも注文があって、与論の方はタマイと言って反りの強い舟を好んでいました」

木材は宮崎県日南産の杉を使用。昇さんも度々買い付けで宮崎に足を運んだ。

「飫肥杉は木自体に弾力性があって、硬くもなく柔らかくもなく。宮崎の杉は船に向いていて、東北地方辺りからも買いに来ていたみたいです。サバニは大きな一枚の板を曲げて造るから、沖縄の人は大きな材料を選んで買っていく。それで、他から来る人たちは、いいのはみんな取られたと言っていたみたいです。宮崎はフンルーに使うチャーギ(イヌマキ)もたくさんあって、宮崎ではあまり売れないからと言って、よく原木をもらってね。杉と一緒に運ばしたこともありました」

注文の中心は競技用のサバニ

沖縄の本土復帰前後からグラスファイバー製の舟が登場したことにより、漁船としての木造サバニの注文は次第に少なくなってきた。昇さんも一時期、市内の別の造船所でグラスファイバー製の舟を造っていたことがあったと話す。このころを境に、木造サバニの注文のほとんどがハーレーなどの競技用の舟に変わっていったという。

昇さんがこれまでに造った競技用の木造サバニは、糸満市内のハーレー・ハーリー舟だけでなく、粟国村や東村、読谷村、馬天、西表の祖納など県内各地に及んでいる。2016(平成28)年に渡名喜村から依頼されて造った3艘のハーリー舟が、昇さんが手がけた最後の舟になっているという。

南洋ハギ技術の継承を危惧、残しておかんとね 

昇さんがこれまでに造った木造サバニは300艘近くあるという。舟造りは亡くなった弟や友人たちも一緒にやっていたが、南洋ハギの全工程技術を継承しているのは昇さんだけである。昇さんはサバニの中でも南洋ハギの製造技術は特に難しいと話す。

「技術は図面では伝わらない。経験が大事。舟造りを一緒にやりたいと言う人はいる。教えることはできるけど、体力の心配があるので造ることはできないよと言っている。本ハギは時間をかけて教えたら、で

きるかもしれないが南洋ハギは難しい。本ハギ造る人は増えてくるかもしれないが南洋ハギはなくなるんじゃないかな。残しておかんとね

                            

 聞き取り日:2021年7月28日/10月12日 

聞き取り者:加島由美子