--> 海人工房資料館ハマスーキ

第2章 4.イチマンウイ人身売買事件

 

牧野 清(1900~ 〇) 

戦後の1950年代、沖縄はアメリカの統治下にあった。然しその頃まで沖縄には「イチマンイ」即ち、「糸満売り」と言われる人身売買が公然と行われていた。遠く歴史を遡ると琉球王国時代に関し次の記録がある。 「貢租滞納スル時ハ妻子ヲ身売りセシメタル慣行アリシハ内法ノ示す所ナリ(中略)斯クノ如ク人身売買ハ公然行ハレタルガ明治17年旧慣取調ノ報告ニヨレバ、人身売買ハ各自ノ勝手ニシテ別ニ制規ナク無禄士族中ニテモ貧困ニ負ハレタル時ハ〇〇身売ヲナスコトアリ身ヲ売リテ妾トナリ娼〇トナリ乳母トナリ〇男下女トナリ僧トナリアリ、或ハ夫ノタメニ身売スルアリ、終身売切ハ妾売リ娼〇売り僧売リニ限ル、其ノ他ハ総て年期売〇リ」(以下省略)(田村浩「琉球共産集落の研究」)
八重山文化論集 〈第3号〉 ― 牧野 清先生米寿記念 ― 【沖縄 ...牧野清さん

この記述にはイチマンウイは全くふれていない。この形の人身売買は追い込み漁法という若い労働力を多数必要とする糸満漁法の発達に伴い、明治の中期ごろから発生したものと推測される。然しそれは上記のような貧困により人身売買が、公然と行われていたという歴史的土壌の中から、「年期売り」というという形で生まれたものであることは全く否み難い。

 イチマンウイは戦前戦後を通じ八重山にも行われており、コーイングヮ(買った子)、ヤトゥイングヮ(雇った子)などとよばれていた。売買両者間には、形式的な契約書も交わされていたようである。

 糸満漁夫の八重山往来は明治15年、廃藩直後で、当時新川村に住んだという。後、次第に増加して、登野城海岸の集落を東小屋(アガリグヤ)、新川を西小屋(イリグヤ)、石垣を中小屋(ナカグヤ)と称した。彼らの移住によってここでもイチマンウイが行われるようになったのである。ハーリー(爬竜船競漕)が行われたのは明治39年からであったという。

 戦後の石垣四ヵ村での概数は、親方は約百戸、コーイングヮは約300人、普通12、3歳から20歳までで、戦前の価格は50~80円、戦後は2、3千円。終戦直後の食糧難時代、沖縄本島国頭方面、奄美、宮古各地からの子供が多数いたと、関係者は語っていた。

 コーイングヮたちの日常生活は年中無休、唯ハーリーと旧正月だけが正式の休みで、台風などは出漁を見合わせた。然し冬海の凛冽たる寒風の中でも、彼らは裸になって海に潜らなければならなかった。彼等は殆ど小学校を出ていない。出漁することを「海学校に行く」と自嘲していた。

 沖での訓練は早く一人前とするために、それは熾烈残酷をきわめた。買われた初期は全く泳げないのにいきなり深い海に抛り込まれて沈み、死ぬかと思った。それに先輩たちは訓練の名のもとにことごとに難癖をつけてしごき、リンチ、制裁をくり返し、それは全く地獄に居る思いで何回も逃げることを考えた。毎日の呼び名もカンパー、スバチラー、ミーチラー、ガジャングヮーなど身体の一番の欠点・短所を口汚くよばれたが、これにも堪えねばならなかった。もし反抗したり、口答えしたりすると、さらに櫂や竹竿などで強かに打ちのめされた。深海では時には人喰鮫に出会うこともあり、陸上ではマラリアの恐怖もあった。

 しかし、親方はみながみな、鬼のような人ばかりではなく、中には自分の子同様に教え、労わる親方もいた。このような親方に買われた者は幸福であったといわなければならない。

 イチマンウイは男ばかりではなく、女もあった。一般に女は男に比し、安い契約金で身売りされた。年期も二十歳までで、家庭の雑事、鰹節削り、豆腐作り、売り、かまぼこ作り、売り、魚売りなどの労働に酷使された。

 以上のように人権も自由も束縛され、まったく奴隷ともいうべき生活を強いられた少年少女たちが、自らを主張することも出来ず、戦後まで糸満の社会には存在していたのである。

 ところが1954年12月、虐待に耐えかねた6少年がくり舟で黒島を脱出、八重山警察署に助けを求めて出頭してきた―ということが八重山毎日新聞によって報道され、全琉的にセンセーションを巻き起こした。少年は20歳二人、19歳一人、17歳二人、16歳一人の6人であった。彼等は八重山労働基準監督署に移され、上間清亨監督署長が現実に即して、その処理に努力した。

 琉球政府労働局は、黒島における6少年のいわゆる人身売買事件を契機として、「年期奉公の形で漁業に従事する青少年の保護対策実施要領」を定めた。それには「イチマンウイは完全に商品化しての人身売買ではなく、不当雇用である」とし、指導改善に従わない特に悪質なるもの以外は処罰の対象としないとした。

 かくて政府指導によって既に子供たちを解放した親方も幾多いた。ところが子供たちはそれは大変だ、親元に帰れない、そのままおいてくれと騒ぎ出し、帰った子供の中には又無一文となって親方の処に戻った者もいて、事はそんなに単純には解決せず、むしろ新たな不安混乱を招く結果となった。

 法の目指す理想と現実との矛盾。糸満社会は矛盾と混乱の中に荏苒時日を経過した。

 一向にきちんとしない漁民の保守性に業を煮やした検察当局は、遂に断固として、一罰百戒の鉄槌を下した。コーイングヮをもって漁業を営んでいる親方を大量に摘発起訴・裁判にかけたのである。

 字石垣に住む屋号「大島屋」の大城真盛は、牧志石垣市長に対し急迫した窮状を訴え、「監獄にこめられそうになっているので助けて欲しい」と哀願してきた。市長も初耳で驚き、当時総務課長の職にあった私に対し、「なんとか気の毒な彼等を弁護してくれないか」と依頼された。

 然し、八重山巡回裁判所では既に結審となっていた―が、市長の要請もあって仲本正真裁判長は考慮し、特別に審理を再開、1956年10月27日、私は八重山巡回裁判所の法廷に立ち、いわゆるイチマンウイ人身売買事件の特別弁護人として被告側の弁護にあたることになった。私は一週間必死に勉強、私なりに情理を尽くして〇〇弁護を展開し、寛刑を訴えた。

 事件は本質的には布令や労基法違反であり、有罪は逃れ難いと予想されたが、せめて「監獄行き」だけは避けたいと、私も必死であった。

 判決は11月12日、この時の8人の被告は皆有罪であったが執行猶予がつき、一応ホッとした。しかしともかくこの裁判を契機として、糸満社会がピシッと襟を正したような印象を受けたのも亦事実であった。

 私の弁護要旨は今も手元に残っている。

 [追記]糸満漁民は八重山に移住したが、宮古にはいっていない。漁場という問題もあったかも知れないが、最大の理由は、八重山は農耕中心の民族で、海を舞台とするする糸満人の立ち行く空間が大きかった反面、宮古は古来海洋発展型の民族で、糸満漁民たちとは競合し、彼らの立ち行く空間が小さい―という判断があったのではないか―と筆者は推測している。(八重山文化研究会顧問)

【出典:日本民俗文化資料集成 第3巻漂海民 家船といとまん 三一書房 編集のしおり10】