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第3章 2.航空参謀を徳之島に送る

上原完亮(昭和2年生)

召集前

 戦争が始まる前は、私は同じ糸満出身の上原牛助さんたち、6、7名で、西原村で漁をし、捕れた魚を球部隊に供出していました。軍に魚を持って行くと代わりに食糧などがもらえました。

 もう、アメリカ軍が上陸を始めたころでしたが、軍の命令で私たちは西原から読谷の方に行く事になりました。私たちウミンチュー(漁師)は読谷の壕にいてもできることはなく、結局「家に帰っていい」と言われ、牛助さんたちと糸満まで歩いて帰ってきました。

 母が賀数の東側の壕に避難していると聞いたので、さっそく壕を捜して行ってみました。それからは母と一緒でした。食糧をあまり持っていかなかったので、夕方になると芋ほりに出かけました。なぜ夕方かというと、昼間にはアメリカの飛行機が飛んでいて外に出られない、晩になると艦砲射撃、飛行機と艦砲射撃の交代の時間があるみたいで、その時間に芋掘りに行っていたわけです。

 防衛隊に召集される

 賀数の壕に来てから何日目かに、日本兵2,3人が防衛隊にするといって若い連中を捜しにきていました。私はその時、18歳になっていました。戦争に協力しないと非国民だと思われるし、他の若い人たちも出て行ったので、私も出ないといけないと思い、壕を出て防衛隊になりました。私たちは照屋グスクの壕に連れていかれました。

 防衛隊といっても、武器は一つもありませんでした。私は炊事係でしたが、他の人たちは、食料や弾薬の運搬をしたり、砲弾で壊れた道を直したりしていました。

 ある時、別の部隊から来た兵隊が「漁師を探している」と言って照屋グスクに来ました。私は何かおかしいと思って、壕の近くのアダンの葉の生い茂った所に隠れていました。そうしたらもう一人逃げてきている人がいました。誰かなと思って見ると、〈山戸拝見〉の四男ウンチュー。この人も漁師だから逃げてきたと言いました。二人で1時間くらいアダンの葉の下に隠れて、兵隊が行くのを待ってました。

 その後、私たちの部隊は東風平村の世名城に移動になりました。世名城から豊見城村の真玉橋へ弾薬を運んでいったことがありましたが、真玉橋に行く途中、大きな木が茂っている所に、人が仰向けになって死んでいるのを見ました。首から上がない死体でした。また、道端には第一線からの兵隊7,8人が傷を負って動けないでいました。戦時中のことだから、連れていくこともできませんでした。

 真玉橋から世名城に戻ると、兵隊がまた漁師を探しに来ていました。防衛隊全員を並ばせ、「漁師は前にでなさい」と言いましたが、誰も出ないので、その兵隊は「名簿を持ってくるぞ」と言いました。名簿を持ってこられたらばれてしまうので、私は自分から「私はウミンチューだ」と言いました。その後、名城に連れていかれました。

 サバニで与論へ

 名城には糸満ウミンチューが数人連れてこられていました。中には昭和3年生まれの人も2,3人いましたが、この人たちは若いということで帰されました。結局残されたのは、上原牛助さん、並里仙徳さん、仲本蒲戸さん、上原亀太郎さん、大城善一郎さんと私の6人でした。私たちは32軍の神直道参謀に紹介され、参謀から「喜屋武岬沖の大きな軍艦を沈まさなければならない。爆弾を持っていって、軍艦を沈めてくれんか」と言われました。嫌でしたが、命令だから嫌とは言えませんでした。糸満辺りまで行って、サバニやウエーク(櫂)などを探してきてある程度準備ができ2日後に舟を出すという時になって、神参謀は「本当は軍の秘密文書を届けるために、僕を与論島までつれていってほしいんだ」というんです。後からわかったんですが、神参謀は、沖縄はもう持ちこたえられないから、与論から本土に渡り、大本営に救援を頼むつもりだったようです。

 私たち6人のウミンチューは神参謀、藤田曹長をサバニに乗せて名城の浜を喜屋武岬の方に向けて出発しました。もう5月ごろの終わりごろだったと思います。風待ちの為に一端米須の浜に舟をつけましたが、東風ばかりで舟が出せませんでした。2,3日待っても南風に変わらないものだから、とうとう神参謀が焦って、「あんた方、日が経てば経つほど、日本の国は難しくなるんだぞ。軍艦は今、中部の方に集結して来るから、どうにかして早めに行ってくれないか」と言いました。

 それで、東風でしたがその夜舟を出しました。舟の上では何も考えず、ただこぐだけ。知念の近くから津堅島の方に向かって舟をこいでいたら、コマカ島の近くから照明弾が上がって、軍艦が近寄ってきました。浅瀬の方に逃げたら軍艦は元の所に引き返していきました。私たちの船がサバニだったので怪しまれなかったのでしょう。

 私たちは夜サバニを漕ぎ、明るくなる前に浜に上がり、隠れながら東海岸沿いに与論島を目指しました。神参謀は船の上でも書類をずっと自分で持っていて、敵に捕まった場合は、海に捨てられるようにと

書類をひもで結びさらにそのひもで石をくくりつけていました。

 浜比嘉島の浮原島で一泊して、昼ごろ起きて海を見ると、さおに白い布をくくり付け旗を作って魚を捕っている人がいました。

 浮原島から宜野座村の松田に行き、そこから久志村の安部、国頭村の安田に行きました。安田では食糧補給のための休暇がありました。地元でダイナマイトを手に入れたので、参謀の許可を得て漁をしました。かなり魚が取れたので、村の人と米や芋などと交換したり、日本兵に分けたりしました。私たちが安田に着いた日に奄美から兵隊が小舟に乗ってやってきました。兵隊たちは「沖縄の応援に来たと」と言っていましたが、神参謀が全部責任を持つからということで、この兵隊たちも一緒に与論に向かうことになりました。

 与論は小さく山がないから、夜は見えないので、星を見ながら船をこぎました。私たちはその日の夜に与論に着いたのですが、安田を一緒に出た奄美の兵隊たちは方向を見失ってしまい、アメリカの飛行機に見つかり機銃掃射を受けたようで、与論に着いたのは次の日の夜でした。

 与論からは舟艇に乗り換えて沖永良部経由で徳之島に行きました。大本営に向かう神参謀、藤田曹長とは徳之島で別れました。私たち6人のウミンチューは徳之島の司令部の少将から「牛島満」と書かれた刀を一人ずつもらいました。全員徳之島に残り原田部隊に編成されて、軍のために魚を捕ったりしていました。

 そうこうしている間に終戦を迎えて軍隊も自然解散みたいになりました。もらった短刀は、持っているのを見つかったら大変だからといって、村の有志の人に持って行かれました。終戦になった次の日から徳之島の人たちと一緒にウミンチューをしていましたが、母が生き残っていて沖縄に一人でいると聞き、またサバニに乗って糸満に戻りました。           

【糸満市史7巻戦時資料編下巻より転載】