--> 海人工房資料館ハマスーキ

第4章 3.戦時中の記憶と戦後の海人生活

松本好郎(昭和6年生)

 松本好郎さんは、渡嘉敷島で生まれ、県立一中に進学する春に、慶良間の島々に米軍が上陸し、入学することなく、家族や村の人たちの山中に逃げ、自決を覚悟したものの、手りゅう弾の不発で生き延びた。終戦後は本部の沖縄海洋高等学校に学び、卒業後は戦後の混乱期にあって、硫黄鳥島から石臼の原料となる石材を運び全島への普及を図り、南シナ海の孤島プラタス島では、テングサを採集し、香港で販売するなど、海で生きてきた。その後は、教員となり、仕事の傍ら、沖縄星の会会長、報得川と美ら海の会会長、沖縄玉水ネットワーク会長を務めるなどして沖縄の環境保全活動に尽力した。教員になってからは、糸満市に移住した。糸満市/トピックス/潮崎町 マングローブ植樹氏名:松本好郎  生年:1931年出生地:渡嘉敷村経 経歴:小学校教員、報得川と美ら海の会会長、NPO法人ハマスーキ会員

戦争の記憶

昭和6年5月23日渡嘉敷村で好男の次男として生まれた。松本家の名前は必ず「好」が入る。父は好男、母はヨシ、兄は好則、私は好郎。弟は好勝と名付けられた。

昭和20年3月国民学校終了し、那覇一中に4月1日に入学を予定していたが、那覇に渡る連絡船が来ず、那覇に渡る機会を逸し、3月27日座間味島、3月28日渡嘉敷島に米軍が上陸し、その時起きた集団自決に直面した。

日本軍守備隊から防衛隊に所属していた父親が手榴弾2個、一つは集団自決用、もう一つは米軍攻撃用として受け取り、3月28日一家親族16名車座になり集団自決を試みた。いずれも不発で、隣で爆発した手榴弾でケガをした兄だけを置いて、隣の女の子を背負い山に逃げ込んだ。臨月を迎えていた母親が翌日山中で弟を生んだ。

瀕死の重傷で助からないと置き座りにした兄も生きていることがわかり、奇跡的にも全員が生きて終戦を迎えた。

島では日本兵が朝鮮人男性3名を、斬首するのを人垣の間から目にしたこともある、食料を盗んだ嫌疑を受け犯人にされた3名だった。島には慰安所もあり20,30人の朝鮮人女性がいた。朝鮮人男性も多く見かけた。戦後、渡嘉敷から引き揚げ糸満に一人で住んでいる朝鮮人女性がいた。

「当時、渡嘉敷村には陸軍の守備隊が3百人、朝鮮人210軍夫、赤松嘉次大尉率いる海上挺進第三戦隊130名が駐留していた。㋹と暗号名で呼ばれた特攻艇100艇が島の洞穴に秘匿され敵艦に爆雷を積んで攻撃する訓練が夜行われていた。この秘密作戦は米軍には筒抜けで、スーサードボート名付けられていた。」*編者注

海洋高等学校の時代

昭和21年国頭郡本町渡久地に沖縄海洋高等学校が設立され、昭和22年2期生として漁撈科に入学した。夏休み、伊江島に大量に無使用のまま山積されていた戦闘機の補助燃料タンクが払い下げられることになり、木箱に詰められた未使用の燃料タンクの開封作業に同級生2,30人で従事した。これはサバニの代わりに漁船に転用もできるだろうと希望する数量を各地域の水産組合に配給し、タンクブニと呼ばれる漁船として工夫され使用された。

海洋高校の実習生として米軍の船(バージ)に乗り、米軍管理下におかれた西表島の炭鉱に残っていた石炭や硫黄鳥島の石臼用の石などを運んだ。燃料としての石炭は貴重であり、石臼は島豆腐作りには欠かせないもので、自分が運んだ石が石臼に加工され全島で使われた。

台湾で拿捕される

昭和26年3月漁撈科を卒業、那覇にある水産会社に自分ともう一人渡久地正徳君2名が推薦され採用された。希望を聞かれ陸の仕事より海の仕事がいいと漁船に乗ることにした。糸満でサバニ5隻をのせ42名の乗組員で漁場に向かう途上、出航して2日目に運悪く天候の急変(ニングヮチカジマーイ)に会い台湾本島に近い島陰に避難しようと近づけたところ、銃撃され停船命令を受け軍艦に拿捕された、島に拘留されること1か月、琉球の船が目の前を通りすぎていこうとする。慶良間の船だと気付き、泳いで大きな声で呼びかけ「俺だ、好郎だ、松本だ」というと相手も気が付きロープを投げてよこし、甲板に引き上げてもらった。拘留される事になった事件のあらましを話し、「元気でやっている」と慶良間の家族に連絡を頼んだ。

その後高雄に1か月余り拘留されたが、天候の急変で島陰に緊急避難しただけで、国際法上問題のない行為だと主張し、船倉には網と溶けた氷の水が溜まっているだけで不審船でないと認定され解放された。公海上で漁をする許可を得、台北基隆を基地に漁業生活を始めた。

琉球船舶旗と日の丸

「アメリカ占領下時代の沖縄の船は日の丸の旗は揚げられず、国際信号旗のD旗の右三分の一を切り取ったものを代用したが、国籍不明の不審船として誤認されることも多く、銃撃を受け死亡者も出るなどトラブルが絶えなかった。1967年から日の丸旗の上に琉球と書かれた三角旗を掲げることが認められ、トラブルは解消した。」*編者注

漁場は南沙群島とプラタス諸島近海でアギヤ―(追い込み漁)を行ったが魚は面白いほど獲れた。獲れた魚は、漁場からも近く、値段も高い香港に運び売った。昭和26年9月に沖縄に戻るまで 香港に7回魚を売りに行った。

教員になる

台湾から慶良間に戻ると父親から危険な船員生活はやめて、陸上生活を始めるよう懇願され船員をやめた。

久米島出身の先輩が糸満で土木の仕事している人がおり、教員になったらどうか、工業、農業、商業教えることが色々あるぞと勧められ、コザの教員学校に通い、昭和27年、渡嘉敷で教員になった。定年は東風平小学校で迎えた。 

               記録2022年〇月〇日   聞き手:城野豊

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左がかつての琉球船舶旗、その右二つが1967年から復帰までの琉球船舶旗