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第7章 1.海人の父親の思い出

ヨシ子

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自動的に生成された説明生年月日:昭和13年12月11日旧姓は金城。金城家の屋号はカヌーヤー。長年教師として勤務。定年後は、海人の文化を伝えようと、ハーレー、十五夜等でチジンを打ち鳴らしカチャーシーを踊って周りを華やかしている。

―先生の生まれた実家の屋号は、カヌーヤーでいいですか?

カヌーヤー。うちの父親が、本当は金城キヨシなんだけど、いつもカヌーって言ってたから、これがカ

ヌーヤーになったわけ。キヨシはさんずいの「潔し」という潔。

―お母さんの名前はと言いますか

母親はサチコ。幸いの、幸せな子ね。だけどうちの母親もいつもあの、なんて言うの、サチコとは言わないで、だぁ、アダ名は何だったかな、クーシーって言ってた。

―化粧品売ってたお母さんのことですね

そうそうそう。化粧品をポーラのね、化粧品を売ってたんだけど

―お父さんがカヌー

カヌー、本当はキヨシね、だけどもう名前では通じない。みんなカヌー。カヌーピーって言よった。カヌーアッピーよ、糸満ではカヌーピーっていいかな

―実家の生業は漁業でいいんですか?

漁業。うちの母親はね、若い頃は、父親の魚を買ってカミアキネー。糸満では、アチナーっては言わんで、アキネーって言うから。カミアキネーをして。那覇とか豊見城辺りだったらいいけど、首里までも行歩いていきよったみたいよ。で、売り方の名前が違うって。この辺だったら「イヨーコーンソーラニー」って言うんだけど、あのー、首里なんかに行くとね、「イヨーウケーミセーラニ」お買いになりませんかとなる。丁寧な言葉でね。こんなして売りよったよーって言よった。面白いね。

―ずっと? 軽便鉄道に乗るとかはないんですか?

ううん、もうずっと歩いて、だから相当。カミアキネーの人たち足が強かったんだね。首里までも歩いてよ、あのあれ(軽便鉄道や馬車軌道)に乗らない。でもあの、首里までっていうか、魚がこの近辺で、田舎でも豊見城とかこの辺で終えたら帰れるわけよ。なくなり次第だからね、遠いところまではもう、魚が売り切れるまで。

―じゃあ途中、那覇まで回りながら首里まで行ったってこと?

うん、そうそう小禄とかね、この辺は、また保栄茂、翁長とか。糸満以外のこの辺通るわけ。前はほら、海岸のところは何もないさ。部落はみんなこっち側(現県道7号線)だからね。

―お母さんが化粧品販売に変わったのはいつ頃からですか              ええっとね、戦後のわったーが、うちの母親と私は20歳違いだから、うんと、母親は大体、40代後半だったんじゃな

いかな。そして亡くなるまで。足は大丈夫だったから。

ポーラの販売員を85歳ぐらいまでやってたよ。亡くなったのはね100才、数え102才で亡くなったから。それでも認知症にはならんで、自然に亡くなってるわけよ。だから病院に、結局は2週間ぐらいだけど、変だっていうことで。その亡くなる日までバイバイしたらちゃんとバイバイするしね、そして私がカヌーヤー、実家にあれして、母親の、こんなしよったよ、いつも交代で行くから。嫁とか弟たちと交代で。そしたら、こんなだったよ、いつもの通り笑顔でね、元気はなくなってるけどバイバイしよったよ、って言ったら、ああそうねって.

―じゃあ静かに逝ったってことですね

そう、30分くらい実家に行って、カヌーヤーに行って、30分ぐらいしたら、危篤状態だから来てくださいと病院から連絡があり、私はまた一緒に病院に行ったの。病気とかじゃなくって、自然の亡くなりかただった。

―次にお父さんの話を聞かせてください。門中はどこになるんですか。

ミーガニクグヮーってところだったから。あの川の側に長男ミーガニクグヮーがあった。わったーは、あとから後ろの方に次男ミーガニクグヮーってしてからね、次男であるわけさ。だけど、このおじいちゃんは早めに亡くなったみたいでね。私はおじいちゃんの顔も分からん。で、おばあちゃんのパーパーが小さい頃からこの子達を育ててね、男の子二人であるわけさ。小さい頃に父親は、おじいちゃんが亡くなってるからこの子達育てきれないでね、お金がないから。このうちの父親も次男もね、学校に行っていない。7、8歳の頃から喜屋武の方に。何て言うの、使われて。男なのにね、畑とか何か出来るかなーって、使われて行ったけれども、結局は小さくて、使えないということで。すぐ2、3か月で戻されたみたい。だか

ら小さい頃からね、学校も行かないで、ウミンチューになったわけさ。小さい頃から、トゥムヌイのあれにして、使われてね。

 そして17、8歳になってから、努力して舟を買ってね。すぐに糸満ではなくて、鹿児島県の徳之島というところにおじさんにあたる人がいたらしい。この人を頼ってね、徳之島で漁業をやるようになったって。

―徳之島には何年ぐらいいたんですか?

徳之島にはね、結婚するまで向こういたから。結局は10年、10年あまりいたんじゃないかな。うちの父親は、私と同じ寅年で24才違いだから、来年寅年さーね。

―10年して糸満に帰ってきたのですか

そうそう、でもあっちでうちの母親と結婚するって、行ったんだけど顔も分からんでね。ただ何でっていうと、母親の実家ミーグムイって言うんだけど、八区の方のね、海の側グヮーで、このミーグムイに父親はヒーヌイとして最初、徳之島に行く前にいたらしい。それでうちの母親は、顔も分からんけれどもこの何て言うの、とっても優しくって背は高いけれども、優しくていい子だから大丈夫よって、顔もわからんのに

―親が決めたのですか?

親があの、いい子よってから決めてね、行ったらしい。母親は、どっちかって言うと糸

満女性で勝ち気だからね。あっち行ってから結婚して亡くなるまで父親は、自分のお金なの

に全部母親に任せて。だから私が小さい頃、戦後よ、映画に行くにも「ヨシ子が映画に行きたいって言うから「お金ちょうだい」って。自分のお金なのに。そしたら母親の方が「はい」って言ってからあげるわけさ。父親は、お酒も飲まないし、どこかに行く時には私がナジキヤーされて、映画とかどっか、あの食事でも映画に行く時にちょっとだけ、何か買い物をする。こういうのも私を口実にしてお金をもらって行くみたいな感じで、生涯こんなだった。父親は優しいわけさ。舟も買って。それから伊江島からのヤトゥィングヮが3人いたわけ。トゥムヌイの父親は、優しいかった。ヤトゥイングヮは母親を怖がってね、母親には「はい」ってやるんだけど父親には、 もうみんな同じ。面白いね。父親がとっても優しかった。

―糸満に戻ってきたのは、戦前ですか?

そうね、戦前戻ってきて、お家も南の方にあった。茅葺屋ーだったけれども。ちょうどターチー橋グヮーの、あの、こっちから行くと左側。左側に茅葺屋ーであってね。そこで私も育った。戦前の幼稚園は戦前だったけど、半分しか出てないよ、戦争のために、戦争が終わって小学校1年生。

―戦争中、お父さんは、家族はどうしてたんですか?

戦争中はね、父親は海軍に召集されて。だから、母親と私とそれから私より二つ年下の、弟。あの時3歳だったかな。3歳とそれから1歳にもならない、まだ何ヶ月かの次男がいた長男が3歳で、私より二つ下だから、私が5歳で3歳、7、8ヶ月の次男がいたけれども、それをうちの母親は連れて、戦争の時もあまくまにこの子供達を連れて、行ったわけさ。で、自分たちの防空壕が無いからあまくまみんな、真栄里に行ったり、いろいろやった。最後のところはね轟の壕。こっちでもちょっとしかいなかった。

2、3週間しかいなかったよ。だけど飲み物とか食べ物がないから。次男は栄養失調症で亡くなった。そして長男はまた、あの轟の壕に入る前に、喜屋武に向かって行く途中で、すごく激しい、迫撃砲がパンパンパン落下するところであれに当たってナーグスク浜で亡くなってね。母親がもうこんな抱っこして、私をおんぶしている、次男は私が 抱っこしたまま、母親またこの長男をね、亡骸を名城の海岸の近くの、なんか木の植えてある下に置いてきたらしいけれども、戦後まあ、1ヶ年ぐらいしてからね。取りに行ったらね、なかった。どっかに処理されたんじゃない。

―お父さんは軍隊から帰って来たんですか?

父親が帰ってきたのはね、戦後2年ぐらいしてから。自分の同年生の海軍の友達がいる長崎の五島列島

にいたらしい。戦争中はどこにいたかは分からない、そして急に戦後のね、私が小学校2年の時だったかね。その時、実家の母親ミーグムイっていう八区のところにいたから。そこに帰ってきてね、でちょっと待ったらまたあの、母親はおめでたになって、昭和22年生のキヨミが生まれたんだけど。

―糸満に戻ってお父さんが漁業を始めたのですか?

あの、すぐは始めないね。漁業している八区のお友達ところで一緒にヒーヌイみたいな感じでやっていた。父親は舟を持っている人よりも漁が上手なんだけど舟がないから一緒にトゥムヌイをやっていた。逆にうちの父親が指導のもとで魚獲りに行ったみたいね。

―いつ頃から自分で舟を持って漁を始めたんですか?

あのーそうだね、私が3年の頃だったかな。お金を貯めてね、自分で舟を持つようになってトゥムヌイをやり、そして2、3名のヒーヌイを入れてね。だけどうちの父親はとっても優しいもんだからトゥムヌイ、ヒーヌイの区別をいなかった。普通だったらトトゥムヌイが威厳を発揮してやるんだけれど、とても優しかったのよ、だからヒーヌイも別に自分と同じとして付き合っていた。

―そのヒーヌイていうのはヤトイングヮーとは違うのですか?

ヤトインじゃなくて、普通のしっちょーるー。

―ヤトイングヮーたちの寝る所は自分の家の屋敷の中ですか?

そうそうそう、自分の家のだけどあのうちの父親と母親は、床の間のある一番座であるわけさ。2番座に大体、ヤトイングヮーたちは寝ていた。それから女の人も一人いたから、この人は、メェーヌヤーがあったから。男の人とは一緒にできないので、メェーヌヤーグヮーに寝よったね。番座の後ろにクチャグヮーってあって窓もあったので、ここで勉強もしたし、寝床にもなった。

―お父さんの舟はどこにおいていましたか?

ターチー橋グヮーの側に段差のある階段グヮーがあったからここに舟をつないでね、そ

こは自分のお家の側でもあった。あとからは南公民館の側にね、あの大きな船置き場ができて、そこにおくようになった

―ハーレーの時は新島なんですか

南、新島って言ったね。ハーレーの時にはハーレー舟を4、5回出したよ。

―ハーレー前のカヌーヤーの準備みたいのを話してくれますか? 

準備もやるけれどもまたなんて言うの、 準備のハーレー舟の選抜がある。あれがある時

もみんな集めてから、母親がご飯とか食事を出してね、勝っても負けてもハーレーが終わったらみんなに酒とかね、ご飯もみんな一緒にあげよった。それがもう、だいたい夕方5時6時に終わるでしょ。それからハーレー歌からいろいろ始まってね 。

―それは自分の家で?

家の中で。そしてもう夜中、明け方まで。もう、わったーも大変だったよ。でも楽しいか

ら、みんなと一緒に踊ったり、歌グヮーを歌ったりして 過ごしたね。だからこれがハーレー愛につながって。もうハーレーの時は小さい時からずっと母親と一緒に応援していた。

―一番になったこともあるんですか?

そう、一番になったこともあるし、それから中間ぐらい、それから終わりになった時もある。 だけども終わりになってもう一番になっても、いつももうハーレーシンカーが集まってやるから同じ。優勝しても中間なってもビリになってもね、 みんなあのなんて言うのお酒や、 うちの父親はお酒を飲まないけどみんなにあげるわけよ、好きなヒーヌイたちに。 そしてごちそうをまた母親があれするでしょ。もう本当に何て言うかね、 夜中まで賑やかで。だからこれが小さい頃からハーレー愛が頭にある

―料理とかいろんなもの準備するお金は、個人が出すのですか

うん、個人がよ。その代わり母親がね、自分の兄弟とか知っている人集めてからこの人たちにもご飯をとか色々あれするけれども。3人ぐらいみんな集めて、いろいろ料理を一緒に作って

―お父さんが持っているサバニは一艘だけでしたか

うん、一艘だけ。だからこの乗るのもうちのトゥムヌイだから。あと4人ぐらいヒー

 ヌイがいてね、 あのやったんだけど、あとからはヤトイングヮーターがやったんだ

 けど、それでもまた自分の顔見知りの人たちをヒーヌイにしてね、頑張ってたね

―ヤトィングヮがいたってことは、お父さんの漁業の仕方っていうのはアギヤー?

アギヤーだね。でも、 色々あるからね

―ヤトイングヮーたちは、 ある年数経ったら自立していくでしょう? その子達は、糸

 満に留まったんですか? 

糸満にいる人もいるし、それからそのままうちの父親のヒーヌイとしていてお金払ってね、いる人もいるし。でもみんな伊江島には帰らないでほとんどこの近くにいたよ。東江ブンカク兄さんっていうのがいたんだけど、この人は、結婚もして、私の家の近くに住んでいたが、子供が出来てあとからどこかに引っ越していった。

―先生は、糸満小学校、糸満高校を出て、それからは

糸満中学校、それから糸満高校、それから大学はあの頃ほら、復帰もしてないから。相模

女子短期大学から理事長が糸満高校に大学の紹介に来ていた。高校3年の時の先生に推

薦してもらって入学した。

短期大学だから教員2級免許しかもらえないわけ。あとからまた自分で努力してね、夏休みとかそういう時に日大の通信教育を受けてね、1級取免許を取った。

―最初の赴任地は糸中だったのですか

そうそう糸満中学校は3回行ったよ。普通は2回までなんだけど3回目はね、荒れていて 誰も行く人がいないっていうことで3回目だけれども、私、自分の出身校だから行きますっていうことで。で行ったら、問題の子供達がこっちに懐いてね、集まって来よった。私の方に。

叱らんわけよ、悪いことをした時は苦笑いしながらね、「あんたこういうのはねやっぱり駄目だからやらないでよ」って苦笑いをしながら打つ真似をして叩かんわけ。こんなしてやったらこの子達は、打たれると思ってるのに打たないもんだから、これで私を好きになったんでしょうね。何か同期会に呼ばれると、問題の子供達が先生って言ってから来よった。

―その子達は今だったらもう何歳ぐらいですか?

そうね、最初のだからうーん、私と10歳違いだったから。上原裕常元市長、それから西平賀雄元市長

市長は出るし、問題の子供達もいたしね。だけどみんなこっちに懐いていた。だから、みんな今でも交流があるよ。

―海の話に戻りますが、先生は十五夜もハーレーの時もよく踊っていますね。それは、教師をしてる頃からやってたんですか?

教員になる前から母親と一緒に。 母親がいつも十五夜でも踊るので、来賓席の側グヮーに、真ん前に座って見ていた。小さい頃からよ。よく新島・南のハーレー応援をしよった

―今も毎年お祭りの時出てますよね

そうそうそう、あの、最初は南の方に行くんだけれども、もうあとは関係ない。もうあち

こっち来賓席まで回って、あのパーランクーも持っているからね、これを叩きながらみな

に踊ってみせるから。だんじゅかりゆしでもいいし、唐船ドーイでもいいしね。自分で踊

る時は、そばにいる人に打ってもらって自分はカチャーシーをするわけさ。そういう感じ

であっちこっち回ったの。

―話は戻りますが、お父さんはいつ頃何歳に亡くなったのですか。

えっとね、私が東風平中学校にいる時だからね、私よりふた回り、24歳違いだから60才にならない前に亡くなったね。とても健康な父親だったけれども、素潜りをしていたから結核ではないけれども何て言ったかな、 なんか腸か肺の関係でね、この辺が悪くって、それで亡くなったね。だけど最後まですごく優しかった。亡くなるって言うのにあまり、わがままも言わない。いつもニコニコしてね、「お父さん大丈夫ね」って言ってやったら、「うん」してから自然に亡くなった。

―門中はどこなりますか?金城さんの

 門中はね、あのーえーっと。門中は、白銀堂のね、斜め向かいにあるんだけれどもだあ、門中の名前忘

れたな。

―お父さんとの印象深い思い出がありますか?

いつも父親は私が夏休みになると一緒にサバニに乗せて、山原の名護の近くのカヌチャ

に連れて行ってくれた。

―エンジン付きのサバニで行ったのですか?

あとからはエンジンになったけどその前は、漕いでだったからね。いつも父親はやりよったからね。でも一人じゃなくってあと一人ヒーヌイがいてね、二人で漕いでから。あとからはエンジン付けたけれども。

―それは日帰りですか?

たまには泊まりよった。だから私も一晩泊まって

―どこに泊まるのですか?

うちの父親のおじさんにあたる人かな。「ティーマートゥアブサケーノカヌシチャ」って

言いよったから。今は、カヌチャ、カヌチャヴィラホテルで言うの。前はカヌシチャって言いよった。うちの父親のいとこにあたる人なのか、とにかくいたもんだからそこに、メェーヌヤーグヮーがあってね。車庫みたいなところ。そこに一晩泊まった。彼たちが糸満に来るときはこっちに泊めたりお互いにやりよったけどね。だから2回ぐらい私は夏休みに父親と一緒に行って、父親は魚を獲ったり、私はまた潜って貝を採ってね。一緒に食べたりして思い出があるね。カヌシチャに泊まって。だから海への懐かしさ、これはハーレーだけじゃなくて 海自体が好きだから。いつから泳いだのかも分からん。泳ぎが好きだったのよ。

小さい泳げない人たちがびっくりして泳げなくなったら沈むわけ。そしたら後ろから回

って、お腹の方から手をまわして助けてね。 海はとにかく、ほら世界に繋がるっていうから。歌にもね、「海は広いな大きいな海にお船をうかばせて行ってみたいなよその国」とあるからこれの通り、よその国も好きでね。だから小さい頃からお金を貯めてから世界旅行も。南アメリカ以外はほとんどあちこち行ってるよ。

―最後に、先生のウミンチューのまちに対して望むことがありますか。

ウミンチューとしてね、漁業が出来なくても観光、ウミンチュのまちだよ、というこで海洋

観光を広げて欲しいなーっていうのがあるね。海人工房みたいな感じで。

―以上でございます。ありがとうございました。

 聞き取り年月日:2021年12月10日 金曜日      聞き取り者:崎山正美