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第7章 2.「新山戸拝見(みーやまてーきん)」の家の海業

上原 利夫(昭和25年生)

新山戸拝見の所在地と屋号

住所 糸満市字糸満599番地

屋号 新山戸拝見(ミーヤマテーキン)

新山戸拝見上原幸松家の家族構成

  戸主:幸松(故人)

 妻 :ジル(故人

長男:晧吉(こうきち)(故人) =漁業 網元 パンタタカー 

次男:伸庸(しんよう)(故人) =漁業 パンタタカーに従事

三男:佑強(ゆうきょう)(故人)=漁業    〃

長女 :サト(故人)= 小禄でさしみ店経営、のち新山の魚売り

次女:フジ子(故人)=理容師(なぎさ理容館経営) 

上原晧吉家の家族構成

戸主:上原晧吉(こうきち)(故人)  1994年8月  逝去

妻  :  ヱイ (故人)         1986年12月 逝去

母 :  ジル(故人)

長女:與儀安子(やすこ)      昭和13年生

長男:上原一慶(かずやす)     昭和17年生

次男:上原 繁(しげる)(故人)   平成22年9月 逝去

三男:上原利夫(としお)筆者    昭和25年10月生

四男:上原 厚(あつし)      昭和30年生

五男:原良弘(よしひろ)      昭和31年生

私の記憶

私(利夫)が小学校入学後に確か親父にパンタタカー(小型追い込み漁)に連れていかれたことを記憶している。

 漁に出た最初の日に、出港してまもなく気分が悪くなりゲロを吐いたら、海の中に投げ込まれた。それは後に分かったことだが、海人になるためのしきたりであり、泳げないウミンチュ見習いにも同様に早く一人前にするための指導方法だと聞かされて納得した。

 そのおかげで、翌日からは船酔いしなくなり、漁に出るのが楽しく感じるようになった。その後も小学校・中学校時代の夏休み等の長期休暇にはパンタタカーに参加した。私の仕事はリーフ内の浅い漁場で袋網(底網)からその両側に袖網を張り、数人の海人が潜水して手や足で海面を叩いて袋網に魚群を追い込んでいくときに、底網がヤナ(珊瑚)に引っかかるのを外していく役割でした。潜水技法を必要とする大変きつい仕事でしたが、袋網にかかった魚が大漁の時はやりがいを感じていました。

それから大学二年次ごろに、夏休みで東京から帰省中にスクマーイ(あいご漁)に連れられ二日間で3万円ほど貰って嬉しかったこともありました。

また遭難といえば、小学校か中学生か定かではないが、出漁前から波が高く、チービシ沖で漁を終えて帰路の途中に二隻のサバニの内、一隻が転覆する事故があり、他の一隻で曳航して無事一人のけが人も出さずに帰還することがあった。

 親父は、天気が崩れそうな日には、漁に出港する前に必ず西空の雲の動きなどを確認(観天望気)して出漁の可否を判断していたが、その日に限って高波の判断に狂いがあったのかどうか理由は聞けなかった。

親父(上原晧吉)からの言づて

 「新山戸拝見家は、先祖代々から糸満の漁師で長男の自分は当然、跡を継がなけりゃあならない宿命を感じていたので10歳ごろから海に潜らされた。海中の砂や石をとってこいと言ってだんだん深い所へ潜る練習をやらされた。その時は親を恨んだこともあるぐらい厳しく鍛えられた。そのおかげで小学校を卒業するころには一人前のウミンチュ(海人)になっていた。新山家は小さな網元で、15人~20人ぐらい使っていたが親父が病弱だったこともあって17歳の頃から自分が中心になって近海のパンタタカー(小型追い込み漁)をやっていた。しかし若いころは本格的なアギヤー(大型追い込み漁)こそがウミンチュとしての一人前の仕事だという気概があって、頑固一徹のじいさんが死んで間もなく三年間ほどフィリッピンに行った。その時は憧れというか血が騒ぐというような思いがあった。あの頃の若い者はほとんどみんな行っている。その時は四、五十トン級の本船にサバニを4隻吊り上げて、フィリッピンやシンガポール、インドネシアあたりまで行って一本釣りやアギヤーをやった。

 戦前の糸満漁業は、冬場は近海のパンタタカーでムレージ(グルクン)を獲ったり、4月ごろになると長崎の五島方面まで行き一組四、五十人ぐらいのアギャーでイサギなんかを大量に佐世保や長崎の港に陸揚げした。この時は値がよかった。今は残念ながら本場の糸満でさえもアギャーはなくなってしまった。話によると戦後網がなくなってしまったことや、米軍の火薬を使って密猟が横行したため資源を荒らしてしまったのが原因らしいのと、漁師の団結心がなくなって統制が取れなくなってしまったことがあるようだ。

 信じられないかも知れないが、戦前はこのすぐ近くの海でアシキン(コノシロ)をサバニに二杯も獲ったこともあるし、一回の網でタマン(フエフキダイ)を四百キロ近く水揚げしたこともある。戦前の良き時代だった。女は50キロの魚を頭にのせて付近の農村とか那覇まで歩いて売りに行った。だからワタクサー(へそくり)もたっぷり貯めこんでいた。もちろん男はワタクサーには手を付けられなかった。(笑)

 戦後は復員して一時期鹿児島でやっていたが、再び糸満に戻って親戚にムエーグワー(模合)を興してもらって船と網を買い、十二、三人でパンタタカーを始めた。最初の頃は、軍作業が華やかな頃で、漁師が半分ぐらいに減ったこともあり、魚がいくらでも獲れたが、港の埋め立て以降はサッパリ取れなくなった。汚染で海がなくなってしまった。このことは、埋め立てが始まるころから覚悟はしていた。だが、今はリーフの外で追い込み漁をしたり、チービシや慶良間とか具志頭あたりまで行くがなかなかうまくいかない。これからの糸満漁業の活路をどうやって見い出すかはむずかしい問題だ。船の設備なんかは良くなったんだが、自然がついていかないので年々水揚げは落ちている。最近若い者が八重山方面まで行って、はえ縄や一本釣りとかトビウオ網なんかをやっているので期待はしているんだが、まあ、自分も祖先が残してくれた家業だし、せめて自分の目が黒いうちは海に出るつもりだ。それに魚を三度三度食べてきた人間には海を離れることはできんよ」と父上原晧吉は生前に語っていた。

その後の新山戸拝見の生業

後年、第四次埋め立て事業が進むにつれ、パンタタカーをする漁場が失われていき、二人でもできるアンブシ(建干網)漁に切り替えざるを得ず、次男の弟(伸庸)と二人でやることになった。三男の弟(佑強)は独立してサバニを購入して、はえ縄漁に従事し、糸満漁協所属組合員の中でも常に上位に入る水揚げ高を維持する漁業者となった。

水揚げした魚の販売は、叔母のサトが糸満の市場(マチグァー)にて相対売りをしてさばき、ジルおばあが白イカなどの高級魚は那覇の料亭や牧志公設市場で売るために、路線バスで開南まで行き、(後年は利夫が暇なときに車で送った)売っていた。

また、人気のあるイラブチャーはほとんど喜屋武の徳村商店から注文があり、私(利夫)が車で時折り運んだことがあった。