--> 海人工房資料館ハマスーキ

第9章 1.パンタタカーからエビ漁・縦延縄漁へ

上原常太郎

於:ハマスーキ

―お名前と生年月日、門中、屋号について教えてください。

上原常太郎。昭和15年9月11日生まれ。下茂腹、浜山戸拝見。テーキンは祖先のおばあさんがあっち(戸拝見)に恩義があるって言って本当はハマヤマイシザキだけどテーキンの名前をもらった。

―常太郎さんの家では代々漁業をやっていたのですか?

うん、そう。父は私が2、3歳のころに亡くなった。前から追い込み漁はあったけど、自分も海人になって追い込み漁から始めた。

―網元は常太郎さんのところだけですか

新山テーキンも網元なるしね、徳山テーキンも網元なるしね。松山テーキン〇〇で一緒になったかな。ハマヤマテーキンも網元やって。次男三男も網元やっていた。

うちはおじいが30何歳で亡くなって。お父も20何歳で。早くいなくなっているわけさ。自分の家には雇い子はいなかった。他の網元にはいたはず。

―常太郎さんは戦争中の記憶はあるんですか

旧大里村の銭又の瑞慶覧長方さんの家に避難していたわけ。あそこには壕があった。でも壕にいたことはあまり覚えていない。私は5歳くらいだった。怖さは分からんかった。防空壕から避難する際のお家、夜道とかウージ畑を通ったことは覚えている。

―何歳から漁業するようになったのですか

中学校1年から2年に上がる、14歳か。中学校、中途半端に出てからに。最初はパンタタカーだった。

うちはおじーがいないからね。次男サカギーヤのおじさんたーと一緒にアギヤーをやっていた。

24歳か25歳に独立しエビ獲りを始めた。エビ獲りは潜り漁。サンゴ礁の波が当たる側でやる。

干瀬というの、浅い時はこれぐらい(胸元を指して)。深い時は5M、6M。波がある時はあまり浅いところに行かずに深みでやっていた。浅いところでは波にあおられる。慶良間、久米島、渡名喜あたりまで行った。

―エビ漁に出るときは何人で行きましたか

4、5名でグループを組んで行く。舟は、南や西からも出て来る。舟はエミ丸よりももう少し大きい船だった。獲ったエビはエビカゴに入れて。海に落として引っ張ってからに。帰る時に船に乗せた。舟には4気筒エンジンがついていた。

―糸満の漁協で水揚げしたのですか

漁協での取引はなかった。業者が米軍に収めた。〇〇さんが仲買人をやっていて、私たちが海に出ると聞いたら帰りの日と場所を決めて迎えに来るわけよ。山原だったら真ん中、嘉手納あたりで引き渡ししていた。

―エビ獲りの後はどんな漁業したんのですか

25歳以降ははえ縄。底はえ縄とかね。ヤンマーのエンジンを搭載していた。漁に出るときは1人だったり2人だったり。1週間ぐらい。食料も持って。獲った魚は氷詰めして。1週間持つよ。夏だったら早く帰ってくる。その時の舟はサバニグの1トンぐらいね。タマン、シルミユー、ミーバイとかいろんな魚を獲った。

―自分の舟を持ったのは何歳からですか

25歳以降、このぐらいから(エミ丸を指して)、サバニを3隻乗り換え乗り換えして。あとは大きな船に。わんが40歳あまってから大きなFRP船にした清が造った。サバニの形。大工さんに型を作らしてあとは清さんから習ってから自分で。ファイバーを塗った。2トンぐらいの大きさ、それが私のサバニの3回目の舟だったかな。今は手放した。現在は和船型の7トンの船。清に型を作らせてカメスケさんが仕上げた。

―今はどのへんに漁に出るんですか

今は、宮古と沖縄本島中間ぐらい。前は尖閣だったが今はもう厳しいからよ。前は大概行きよった。八重山、尖閣。このぐらいの船だったらどこでも行けるから。4名1組で。マチ、タイとかを縦はえ縄で獲っている。底はえ縄は海底に這わせるけどこれは海底から何メートル浮かして流す。15Mくらい。深さは300M。今は、家族3名でやっている。次男(49歳)、三男(46歳)と一緒に。

―パヤオとかセーイカ漁はやらないのですか

セーイカはやっていたけど沖に出るから。冬の仕事でしょ。うちなんかもう寒くて。沖に出るから。危険がいっぱいであるわけさ。セーイカ何ヶ年やったかな。パヤオはやったことない。

―セーイカをやっている時は儲かったのですか

禁漁が解禁されてすぐは儲かるよ。しかし、うちなんかは元々はえ縄だから。仕事始めは11月、12月ではえ縄に行っているから時期が重なり切り替えするのが難しい。

―遭難の経験はないですか?

タンカー船と衝突したことある。セーイカする時にゆっくり走らせていたらタンカー船がくるのが分からないで汽笛がブーとなったから見たらタンカー船が迫っていた。昼よ、真昼。この時にエンジンをさせたが間に合わなかった。船首のところを後ろにバックしながらはねられた。けがはなかったが自力で糸満漁港に戻り海上保安庁に連絡した。あれは10年近くなるかな。あっちは砂糖を積む大きな5万トンクラスの船で沖縄本島と大東島の中間だった。

汽笛鳴ったから分かった。汽笛鳴らなかったら即死しよったさ。あっちは見えていたはずだけどね。その時は息子と二人で乗っていた。

―若い時はハーレーに出ましたか

漕いだよ。昔は各村で分かしバーレーがあるでしょう。勝ったところが村の船として出場する。それに選ばれたこともある。それは最初に造ったサバニで。造った人は上原リョウスケさんといって。上原イサオさんの父親。現在ハーレーの村船は私の常丸を出している。

―若い時と今とでは漁獲量に変化がありますか

漁獲量は相当減っているよ。始めの頃はそれこそ海にお金拾いに行くような感じだったですよ。復帰後。昭和60年ぐらいまでは。

あの時分の海人の家は2階建て、鉄筋コンクリート。頑張って儲ける人は儲けるけどね、難儀しないと儲からない。

―今日は出漁しなかったんですか

天気も悪いし、正月初競り、月曜日の初セリに合わせていたから。次は連休以降に行こうかなと思っている。漁に出ると泊まりになるが寒い時は長くは泊まらない。でも5日ぐらいは泊まるよ。夜はブリッジの中で寝るよ。

―最近はどうですか

コロナの影響が広がってからは量を獲っても需要がないからね。結局、高くは売れないから漁業監視の仕事も入れてやっている。尖閣は危ないので行くなと言われている。尖閣と八重山の中間あたりで監視している。台湾船や中国船はしょっちゅう。マグロ船はしょっちゅう交差しているはずよ。うちなんかは浅いところだからね。船が見えたら写真撮って。あんまり近く寄るなっていうからよ。遠くから写真撮っている。渡されたカメラがあるからよ。それで撮って。帰って来てから報告する?

―次の世代の人は漁業で食べていけますか

新しい何かを開発しないといけない。資源が底をついてくるからね。マチ釣りが出た頃から二代目が乗ってそのまま引き継ぐという人達も何名かいる。そういった流れも出てきてはいるんじゃないかな。セーイカは今でも頑張ればもうかる。

―次の漁業やる若い人たちへの望むこと

後を継いで漁業盛り上げるようにもう少し頑張らさないと。新しい資源も探さないと。たくさんやることはあるはずだけれどまだそれは見いだせていない。

 聞き取り日:2022年1月7日

聞き取り者:崎山正美

水に浮かんでいる船

自動的に生成された説明

旧正月に大漁旗を掲げた常丸