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第9章 2.エビ獲りからパヤオ漁へ

城間盛弘(昭和13年5月8日生まれ)

 城間さんは、旧摩文仁村の小渡に生まれ、終戦の年の昭和20年に糸満に移り住み、以来、海人として生きてきた。海人修行パンタタカーに始まり、タカセカイ獲り、エビ獲りを仕事とし、今ではパヤオ漁に勤しんでいる。昨今の不漁は異常気象に起因しているという。

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城間盛弘さん
生 年:昭和13年出生地:糸満市字大度(旧摩文仁村字小渡昭和20年頃から糸満に移り住む約10年ほどはヤンバルでエビ獲りをしていた。

―城間さんは元々糸満生まれですか

生まれたのは糸満市大度。5歳か6歳頃までは大度で育っています。父親は真壁村の収入役をやっていた。疎開した後の戦後から糸満です。

―漁師は何歳のころから始めましたか

漁師は中学1年の夏休みから。その後は学校に行っていない。常太郎さんは学校に行っていたけど夏休みは海に行っていた。

―漁師になるのはヤトイングヮとして入っていくんですか

あの当時は、沖縄って金持ちっていたかなーっていうぐらいみんな貧しいですよ。友達見てもみんなもう何もない。こんな時代ですね。14歳なので仕事は何も出来ない。しかし、漁業は出来るんですよ。泳げたら出来るっていうあれだから。

―どこかの網元に世話になったのですか

カンジャージョーってあるでしょう。あそこに網元が集中していた。新山テーキンに世話になった。議員もした上原晧吉さんのところに。

―最初はパンタタカーをやりましたか、期間はどれだけでしたか

 パンタタカーから始めました。雇いは期間があるけどうちなんかは雇いじゃない。漁が終わると分け前を貰って糸満小学校の近くの新屋敷の家に帰りました。母と一緒に住んでいました。

―中学校の時に漁師になろうと思った動機は何ですか

仕事がなくこれしかないから。また同級生やらひとつふたつぐらい上や下の者など、20~30人もいたんですよ。。

―新山テーキンで働いていた期間は大体どのくらいですか

1年半ぐらいでしょうかね。その後はマサキヤーに行っていましたね。常太郎さんたちのすぐの後ろの家です。マサキヤーには2年半から3年いました。

その時からは潜り漁をしていました。タカセガイ、ヒロセガイ。あんなの捕るんですね。

―新山にいる時は、糸満以外、県外にも行ったのですか

いや、県外は行かない。港川で仕事する時は、魚売るオバーが港川の港で何時って約束するんですよ。それで港川に入っていって、このオバーに魚みんな持たしてまた自分達は糸満に帰って。そのオバーは港川の人ではなく糸満の人で那覇に売りに車で行くんですよ。ほとんど。

エビは糸満漁協が買いきれんが、セリ長と買う人は必ずいるってね。コザらへんまで仲買は行くけどね。エビいくら捕って来ますかと聞くので、多い時は150キロ、少ない時でも100キロぐらいは獲るよって言ったら、ううん、こんなには絶対買いきれないという。

今、エビは50分の1か100分の1ぐらいしかいないですよ。

―その後はどうしたのですか

チービシでタカセガイを獲っていた。あの当時は殻がボタンになるので高いんです。一番高かったんじゃないでしょうかね。石垣や南方行きでもやっていましたね。私たちは主にチービシとか慶良間とかだが、ほとんどチービシにいましたね。3ヶ月も4ヶ月もいましたよ。

カゴに入れてからに浜で生かしておく。それで2~3日に1回、舟で沖縄本島に運ぶわけよ。うちなんかは行かれない。わったーは家から芋やら味噌やら持って来て島で泊まって貝獲りをしていた。

チービシには垣花のオジーたちがよ、4~5人サバニで漕いで来るんだ。魚を20~30キロ釣ったらお家に帰りよった。

わったーがチービシに行くにはエンジン付きのサバニ。この時代からエンジンは、ほとんどみんな付いていました。パンタタカーの乗る舟もみんなエンジンは付いていましたよ。

―その後は自分で舟を持ったのですか

いや、自分では持ってない。他の人と組を組んでもエビ捕り漁業をしていました。エビ獲りは長らくやりましたね。10何年、約20年ぐらいでしょうかね。

―エビ獲りの漁場はどこでしたか

遠いところは久米島、伊平屋、渡名喜、粟国、慶良間。日帰りで。生かして。ほとんど軍ですね。英語の分かる人は中に入って。沖縄の人はエビ食べなかったですね。

親方は舟を持っていますが、他の人に舟を持たすんですよ。

―城間さんが自分の舟を持ったのは何歳の時ですか

22、3歳でしょうかね。本ハギのサバニを持ちました。「シッピルースー」に造ってもらった。あの時分の船ツクヤー(船大工)はでーじやたんどー(大変だった)。人気もあって。注文する人が「造ってください、お願いします」ってからもう。お金もあっちが決めるんですよ。舟を作る人が。

―自分の舟を持ってからはどんな漁をしたんですか

3~4名乗せてエビ獲っていましたね。配当の時は、みんなの見ている前で計算してお金を渡しました。

―自分の舟を持ってからは随分儲かりましたか

今考えたらそれほど儲かってないけども、昔の漁師時代と比べると倍ぐらいあったんじゃないかな。

儲けない理由はあんまり海に行かないわけよ。海に行ったら確実に4~5万儲けるわけよ、だけど海に行くのが。月に1週間ぐらいしかない。

―海に行かない日は何をしていたのですか

海が荒れたりすると漁に行かない。相当波がない時にしか行かない。することがないから。夜はほとんど毎日飲み歩いていた。いい時代だった。

―漁に出るかどうか天気の判断はどうしていましたか

みんなで決めて行くんですよね。ほとんどうちが決めるんですけどね。若いから酒飲んで2日酔いとか。何か理由付けて。

―今日は特に天気が荒れそうだとか天気の見方はあるんですか?

うちなんかは分からなかったけど〇〇さん達は天気見て分かりよったですね。台風は分かりますよ、

―山原にもいたそうですが、何をされていましたか

国頭の浜に10年余りいてエビ獲りをしていました。奥間の米軍基地にも納めていましたが、それほどは買い切れなかったですね。叔父さんの奥さんは英語が上手で仲介してくれた。復帰の年に山原から糸満に引き上げてきた。

―自分の持ち舟は時間的に言うとどんな変遷がありますか

サバニは3隻ぐらい乗ったですね。次第に大きな舟にしていった。古いのは他所に売った。平成3年にFRP船を購入してからはマグロ漁に変わりました。

―マグロ漁について

マグロ漁はパヤオでやっている。遠い所のパヤオは糸満から25マイル沖合にある。以前は1日で7~8本程穫れました。1本30キロ~50キロぐらいあります。しかし、最近(この3年ぐらい)はマグロがいなくなっている。

マグロが穫れなくなったのは異常気象ですよ。何現象って言ったかな。潮がないのですよ。流れがない。潮がないから魚が釣れなくて。前なんかは1日4、500キロ釣りよったカツオが一つも釣れないぐらいですよ。パヤオ行ってもいないんですよ。

ガソリン代も高騰しているので大変。それでうちもあまり行ってないですけどね。もう2、3ヶ月行ってないです。釣れないっていうから。

―若い頃の話に戻りますが、ハーレーに出たことはありますか?

はい、あります。南(新島)としてね。25歳から35歳くらいまで出場しました。クンヌカセーも何回も出ましたね。うちなんかは45歳まで潜りですからね。立ち泳ぎができたので転覆させた舟を下から持ち上げて起こすということができたが、今の人にはそれができないね。

―ハーレー舟を出す家というのは決まっていたのですか

ハーレー舟を出すのはですね、うみんちゅ―の競争なんですよ。力のありそうな人を探してきて乗せてから勝負して勝った人の船を出すという。みんな自分の舟を出したいのです。

 ハーレー舟はアギヤーの大きな舟ではだめですね。小さい舟です。小さくてもハーレー臣下はみんな慣れているから乗れます。舟の大きさに制限があるわけではなかった。それぞれの判断で良い。それでも大きな舟は良くは走らないとわかっているので小さい舟になってしまう。舟の長さも関係なかった。当時、ハーレーに使った舟はイノーアッチャーの舟だが、今では小さすぎてハーレーには使えないでしょう。今では行事委員会の舟を使うので、舟の型は統一されている。

 

―ハーレーは楽しかったですか?

いやー。酒飲むのが楽しい、こんな感じでしたね。

―旧正月とかお盆、或いはハーレーの時、必ず帰って来ますか

うちなんかはもう昔から帰って来ましたですね。国頭だから車ですぐ。

―天気が良くなりましたらパヤオに行きますか

 はい、行きますよ。自分一人で行きます。一泊程度で。今はあまり釣れないから4~5本釣れるまで頑張る。だから2泊する人もいる。パヤオに行くと怖いですよ。5~6隻の船がひしめいていますから。だから船の少ないところ行く。どっちのパヤオにも知っている船がいます。糸満漁協は10基か11基のパヤオをおいている。

 どのパヤオに行くかは、毎日変わる。暗黙のルールがあって、○○の船が先にいると場所を変えるとか。糸満漁協以外の船が来ることはない。

―これまでうみんちゅをしていて怖かったことはありますか

ありますよ。天気が荒れて、船が波被ってもう少しで大変だったなあとか。これは、毎年1、2回はありますよ。天気予報では分かっていても行くんですよ。波が3mとは分かっているけれども。3mだったら大丈夫だろうと。しかし、3.5mぐらいになって。思ったより荒れていたということがある。でも遭難したことは今までにない。

自分たちの仲間には遭難した人も結構いるが、うちの家族はそれを知っていても行くなとは言わない。

遭難は糸満ではいくらもあったですね。マサキヤーもそうなんですよ。うちは東海岸にいたんですよ。宜野座村。マサキヤーは糸満にいたんですよ。海に行ってから5人ぐらい帰って来ない。うん。もう何もない。全滅。サバニも。

―まだまだしばらくは漁を続けられるんですか

来年ぐらいまで。今、健康のために海に行くつもりです。お金はどうでもいい。

―エビを獲っていた時の道具はまだ持っているんですか

ハマスーキに贈呈しましたよ。

―もっと潜り漁が出てきてもいいとも思うのですが

セリで見てますけどね、パヤオに絶対敵わんよ。20キロ持ってもマグロ1本に敵わんのに、値段が。

ヤコウガイを獲る漁師がうちの浜(南浜)にいるんですよ。3名いたけど、去年、2人亡くなりましてね。今は一人だけ。

―どれぐらいの深さまで潜っていたのですか

うちなんかはあんまり潜りきれんですよ。大体20Mぐらいですよ、鼓膜を破ったことはない。昔はミーカガンでしたけど、復帰の10年前ぐらいからはは水中マスクとフィンをつけて潜っていました。国頭でですね。

―魚がいなくなった原因

あの当時は魚もたくさんいてですね。イラブチャーの4,5キロものが。見るけど獲らないんです。獲りすぎやダイナマイト漁の影響でしょうかね。ダイナマイト漁をやっていた組員が二人いましたよ。あったーは上手やったんやー。ダイナマイト使って上手だった。

聞き取り日:2022年1月11日

聞き取り者:崎山正美










南浜に係留された城丸