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第9章 3.何度も潜水病にかかった

平良俊夫

 平良さんは、石垣島で生まれ、幼少のころから雇いとして魚家に奉公し、畑地前には南洋でタカセガイ取りに従事した。二十歳のころに糸満にやって来た。糸満では、潜りでエビ獲りやタカセガイ取や延縄漁を行ってきた。また、友人等から頼まれてダイバーの仕事もした、おかげで何度も潜水病にかかったが、海の中に入って加圧し、直してきた。近年、パヤオ漁をやっている。

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平良俊夫さん
氏名:平良俊夫生年:昭和18年出生地:石垣市登野城昭和42年より糸満に居住

―いつ糸満に来られたんですか

24歳に来てずっと今まで50年おりますよ。

糸満に来たのはダイバーがいないと言って。友達がどうしても来てくれって言われたもので。こっちに来てずっと居るわけですけどね。本当はシンガポールに沈船の引きあげに行くつもりであった。

―その前はどうしてたんですか

雇いと言って物心ついた7つ8つから石垣の海で泳いでいました。

―お父さんの仕事は何だったんですか

ウミアッキサーしていたらしいですけどね。私は覚えてないんですよ。母さんが2つか3つの頃に亡くなったということで家族がバラバラなってしまったね。23歳まで一人でした。

父親が新しい嫁さんを探していたので一緒に居るわけにもいかないの離れ離れでした。私は7歳から20歳頃まで雇いでした。

―雇われたところの網元は糸満の人でしたか

糸満の人でしょうね。金城さんね。コーバンヤーと言っていました。

―ダイバーの仕事はここでは何年ぐらいやってたんですか?

糸満ni

来て城間さんと潜りもしたが、漁業権の問題で今では出来なくなったので今はパヤオやっています。

―当初、城間さん達とエビを捕っていたの

そうですね。城間さんと浮きはえ縄とかもやっていましたし。ウキベーナーといってね。

―港川とはどういう関係ですか

船籍は港川だけれども糸満で水揚げをしていたんですよ。

―それは城間さん達も一緒ですか

城間さんとは別の話しですよ。城間さんとはただエビ捕りで一緒に。長いことやってましたけどね。

―港川の親方の船に乗ってエビ捕りをしたのは何年くらい前ですか

5-6年くらいやってましたね。

それから城間さんとね、エビ捕りを止めてからパヤオが出来るようになったんで。エビ捕り漁を解散して自分でやった方が良いんじゃないのということで。自分の船買って、パヤオやるようになった。

―それが何年くらい前ですか

14-5年、20年くらい前になりますよ。

―パヤオまで行くっていったら大きい船ですね

最初はサバニだったんですけど。今は3トンちょっとの船でやってます。

―最初の船はサバニね。それは誰に作ってもらったんですか

清のお父さんの船買って、それからパヤオ漁を始めたんですよ。イカ漁もやりながらも。

―次に船を作ったのはいつですか。何年くらいこの船を使ったんですか

サバニはね、4年くらい乗って、大きい舟は40年前ぐらいですか。泡瀬から中古を買ってきた。

―今も毎日パヤオに行ってるんですか?

今はちょっと病気でたまにしか行ってない。

―一人で乗るんですか?

はい。ほとんど一人ですよ。

(上原)今はもうみんな一人乗りで。3トンクラスの船でパヤオの日帰りが多いですね。

―俊丸は、何トンですか

3トンちょっとだけどね。

―潜りはエビ漁を止めてからはやっていないんですか

潜りはもうやっていない。

―糸満では最初にどこに住んだんですか?

南、一区のジョンケンヤーヤー。

―糸満に来てダイバーの仕事とはどんな現場だったんですか

3年ぐらい。港の工事のダイバー。

(上原)港の岸壁作る。船げ上場つくる仕事など。

―その時のダイバーの格好というのは大きい潜水具を被っているのですか

ボンベじゃない。コンプレッサーでエアー送って。ホース。

―それを何年くらいやったんですか

漁しながらだから友達にやってくれと言われるので。まあ長くて40日くらい。また泡瀬の埋め立てでも潜った。

(上原)ずっと続けてではなく期間期間。あの時分は港を作る時代ですからね。山原の安田、泡瀬の埋め立て、喜屋武の港の工事などがあった。各浜グヮー浜グヮーに港に作った。復帰後の事。

―海の仕事をしていて危ない目に遭ったことはないですか?

潜水病に何回もかかったよ。エビ捕りじゃなくて。こういう浅瀬ではかかりませんけどね。30ヒロの深さに2時間も潜るとかかる。

―それはちゃんと治ったんですか

2時間潜って潜水病になると直すのに再び4時間潜らないといけないので我慢ができない人は潜水病を直せない。私は我慢して直した。病院にはか叔母れたことはない。

―パヤオに行ってからは儲かりましたかね

食う分には困らんけど。儲けはしれている。

(上原)パヤオで狙う物、シビーグヮーだけでは、商売にはならない。サバニでやればシビグヮーでも経費がかからないから。燃料費があまりかからないから。だけど和船型、3トンクラスになると経費がかかるから。量もまた、物も、良い物を捕ってこないと。儲けと引き合わないという感じです。

―船の遭難とかそういうのはなかったですか

そりゃ、あります。ひどいのはありましたけどね。台風で。与那国近くになりますかね。南方から来ながらですから。糸満に来る前の19才ぐらいの時ですよ。

―どんな状況だったんですか?

もうあの頃サバニを4艘積んで。〇〇28名ぐらい。ボースン、機関長、船長、コック長。〇なんとかゆっくり走らせながら動かしたんですけどね。

―それは貨物船かなんか

サバニを載せた母船ですね。昔の船だから10トンぐらいじゃないですか。船持っている連中はサバニの親方達。

―その母船はどこから沖縄に帰る途中だったんですか?

南洋のサイパン・パラオから八重山に。

―それは戦前の話ですか

戦前じゃないよ。うちなんかが18-19歳だったからまだ復帰もしていない。復帰はこっち(糸満に)来てからだった。

―戦後もパラオの漁では島に泊まるんでしょうか

島には泊まらない。船に泊まる。母船、島に上陸したらどうなるかわからんさ。

―その時の漁は何ですか

タカセガイです。〇〇。素潜りで捕った。

―何人ぐらいウミンチューがいたんですか

潜る連中は20名。

―全部イチマンチュ?これは八重山にいる話か。

雇いだからね、大島とか糸満の人もおるし、山原の人もおるし。むるごっちゃ。

―大体、何日ぐらいその辺で漁をしているわけ

1箇所ではやらんけど、1回で3ヶ月ですね。本当は100日かかるんですよ。船が潮の関係で何日か遅れてしまうんで。

―タカセガイ捕りは他の人に聞いたら儲かったと言っているけど、雇われている方はどうでしたか

親方のあれ(決定)ですからね。配当する時に分かれてくるんですよ。弱い人は弱いなりに強い人は強いなりに。その計算にうちなんかタッチは出来ないですよ。

―平良さん自身は儲かった?

まあね、人に使われている立場から見るとこっちから自分の手に入るということはおいしいことではあったけどね。人が使えないお金をちょっと手にして使えるっていうのは。

―南方にタカセガイ捕りに行った仕事というのは何年ぐらい続いたんですか

3航海行ったとしても3年かかりますよ。

―平良さんは何年ぐらいその船に乗っていたんですか?

18.才~20才と行っていたらから3年ぐらいでしょうね。その間〇〇船も行きはしたんですけどね。海人藻採りに。

―その島の名前何と言いましたか

ポルトス(プラタス)って言いましたけどね。香港からあまり離れていない。

―そこでもタカセガイを捕っていたんですか

タカセガイも捕るし海人藻も。薬草になる。

―それは何年ぐらい 

結局、1年ぐらいかな。3ヶ月3ヶ月だから。

―平良さんはサバニを何隻か造ったんですか

清のオトーから中古船買って名義変更の時に俊丸と名付けた。

―今は大きな俊丸で年何回ぐらいパヤオに行くんですか

何回行くんかな。今は身体調子悪いからそんな行かないけど。年に24-5回は行きます。

(上原)最近はあんまり行ってない。平良さんだけじゃなくて。また行っても安くて。

―平良さんは糸満に来てからハーレーにも出たことあるんですか

あるよ。30年ぐらいやっていましたよ。一区、二区の新島の代表として。

―何歳ぐらいまで漕いだんですか?

 40才位くらいまで漕いだ。御願バーレーを漕いだのが最後。御願バーレーがウミンチュがやるようになった最後くらいまでやっていますよ。

みんな組み合わせて御願バーリーだけはやろうねっていうことで。

(上原)昔は、海人が御願バーレーとクンヌカセーやっていたが、昭和50年60年代からはウミンチュ自体が本バーレーに出場できない状況になった。だけどウミンチュこそがハーレーを漕がないとならんと最低でも御願バーレーはウミンチュがやりましょということで今の形になっています。それが昭和60年ぐらいからはこんな形。

―ハーレーやっていて楽しかったことはなんですか

もうね、糸満の一番の行事ですよね。〇〇は良かったですよ。今でも見に行きます。

―平良さんは、親の時代から糸満じゃないから門中は糸満にはないわけでしょう 

平良の門中ないですね。

―石垣に墓は残っていないのですか

あるにはあるんですけどね。嫁と息子が行きそうもないんであっちは片付けてこっちに買ったんですよね。

―糸満には門中行事がいっぱいありますが、糸満の門中ではない平良さんそういう事は全然しないですか

そうですね。まあ。

―石垣にいる頃はどこに住んでいたんですか

新川。元々は登野城と言いよった。先祖代々海人だった。

―平良さんの言葉は糸満訛りですか

糸満言葉ないびんとー。

―殆ど一生は海の生活だったんですけど楽しかったですか?海の暮らしは

楽しいというのはあまりなかったですね。うちの場合は複雑ですからね。頑張ってみても別れた嫁さんのこと今更言っても〇〇ならんけど何もならんかったですよ。今は少しはマシかな。子供なんかが大きくなって少しは明かりが見えたかなという気もします。

―漁に出られないというときは何をしているんですか

次の準備しますよ。道具準備したり。趣味は特にない。

(上原)昔の人たちはフィリピン麻雀をやっていた。若い人でやるのはせいぜいパチンコくらいじゃないですか。ボウリング場がある頃は、ボウリングを楽しむ海人が何名かいたんですよ。

―糸満の漁業が盛んな時というのはみんなで料亭に行ったりしましたか

主にミナトヤーに行きました。イチフジにも行きました。漁から帰って計算する時に。ちょっと飲もうねということで。費用は配当からその分を残すんですよね。

―特に思い出とかありますか

そうですね。エビ捕り漁のときは、みんなでお正月には常太郎さんの家に集まった。

―今はひとり住まいですか

アパート借りています。長男の家族はすぐ近所のアパートに住んでいます。

―ご飯は自分で作っているんですか

うん。ウミンチューはみんな自分で料理作りますよ。

―俊丸はどこに繋留しているのですか

南の浜。

今日はどうもありがとうございました。

港に停泊している船

自動的に生成された説明
平良さんの持ち船 第3俊丸

平良さんが使用していたものと
同型の潜水具