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第6章 1.トロール船乗船記

 大城 聰

週刊レキオ ~LEQUIO WORLD~生年月日:1947年75月22日屋号:ウシカミセークヤー門中:宇那志あだ名:ヒジャヤー沖縄水産高校を卒業してアフリカ沖大西洋で操業するとトロール船に乗り組む。船を下りてからは浜京パンに勤める。語源 【カナリア】: ナッシーの語源帳

―大城さんの生年月日、わらびなーについて

1947年5月22日、74歳。あだなしかなないよ、ひじゃやー、左利きだから

―自分の生まれた家の屋号は

ウシカミセイクヤー。動物のウシ、ウシとカメ、セイクヤー。

メインの呼び方やてぃ、ジョウガニクユナンジャー。ジョウは門の、兼城の兼に城に、   

ジョウガニクユナン、昔はジョウガンユナンと言ったら、すぐ通りよった。あとから   ウシカミセイクヤー。家は西区にあった。

―自分が結婚するまでの頃の家族構成

オトー、オカー、七名兄弟。男4名、女3名。2番目、次男

―オジーオバーはいなかったのですか

別に住んでいた。

―高校はどこに行っていましたか

糸満から泊の水産高校に通っていた。

―子供の頃はどんなことをしていましたか。漁業の手伝いは

海で泳いでいた。すぐ学校からけーてきぃねー(帰って来ると)すぐ海んかい 。漁業の手伝いはなかった。

―お父さんは舟を持っていたのですか

うん、 サバニ

―お父さんの漁業というのは近くでやっていたのですか

うん、大体は日帰り。一艘で日帰り。3日、4日ぐらい国頭から沖縄中。

―主にどんな魚が獲れていましたか

わんがわかいんしえー(私がわかっているのは)、イカ、スミイカあれしかわからん。

―ハーレーに出たことがありますか

わんや中学生ハーレーに出たことはある。水産高校では学校別対抗に出た。あんさーにまた、卒業し、船を降りてから職域ハーリーにも出た。

―お父さんはハーリーに出たことがありますか

わからん、覚えがない。

―お父さんはいつ頃漁師やめましたか

父は漁師を60代ぐらいまでやっていた。弟と兄貴もウミンチュし。船むっちょーてぃぐとぅや(弟も兄も海人で、船を持っていたからね)。

―お兄さんと弟は元気ですか

二人とも亡くなった。兄貴が55歳で亡くなって、弟が60ちょっとじゃないかな、60代

―船はそれぞれ別々?お父さんから引き継いだのですか

いいん、ない(いや、それはない)。

―弟が亡くなったのは何年前

去年、一昨年かな

―そのサバニはどうしたんですか

サバニやあらん、和船。失敗さーによ、借金もって、兄貴も失敗やって、わんねー借金はらやーるしちゃっくたん(サバニではなく和船。漁に失敗して借金を抱えた。兄も失敗して、私が借金の返済をしていた)。

―それトロール船に乗ってからの事ですか

うん、出てから。

―水産高校卒業してどこの会社に就職したのですか

琉球漁業。

―それは自分の就きたい仕事でしたか

うん、外国に行けるんならんでいち(行けるならと言って)、第一希望。

―どこの国に行ったんですか

スペイン、スペイン領のカナリア諸島

―じゃあ、外国行ったのはスペインのカナリア諸島だけですか

いや、行き帰りは飛行機だから、ヨーロッパはほとんど行っている。

―琉球漁業自体がカナリア諸島に基地を持っているのですか

大洋漁業。沖縄は復帰していないから大洋漁業の外地事業の管轄。

―カナリア諸島を拠点にして、漁業している時の楽しかったことは何ですか

休暇で上陸した時。

―主にどういうところに行ったのですか

飲み屋。カナリア諸島の2ヵ所に行ったことがある。グランカナリアとテネリー。あの富士山より大きい山がある。むこうの基地が1年、2ヶ年ぐらいだったかな

―カナリア諸島は賑やかだったですか

うん、賑やかだった。あの時分は。今もそうだけど観光、大西洋のハワイと言われていた。

船もいっぱい来て、豪華客船も。

―話は戻るけど、高校卒業してすぐもうカナリア諸島に?飛行機で?

いや、初めは船を持って行った。

―水産高校からは何名くらい応募しましたか? 応募したら全員採用?

指導員は、全部内地の下関。あと、新入りは全部沖縄、水産高校の卒業生。機関科と漁業科。先輩がひとりふたりいたかな 

―さとしさんはどこに配属されたの?

漁業科だから。 

―じゃあ、網流したり?さっきのメモ見るとエビの詰め方とか

エビもいっぱい入ってくるから

―詰めるという梱包までも漁業部署の人の仕事?

全部、もう入ってくる魚は、全部捌いて箱詰めやってダンボール

―箱詰めしたら空輸するのですか

運搬船が来て急速冷凍、船の中で急速冷凍やっていた。運搬船は頻繁に来る。そして日本に送る。

―大変だったことは何ですか?

大時化、ずっと雨が。網が破れた時はもう修理。アフリカ大陸だと西側だからモロッコ沖だから、すぐ島はすぐ見えるところで、だから大時化のときはトロール船だから網を引っ張り、シーアンカーにする。するとあんまり揺れないわけ 

―何年いたんですか?

12年、全部で15ヶ年ぐらいいた。後は指導員で、日本が世界で200海里問題になってから漁場から全部日本船が引き上げた。引き上げてから後は指導員。大洋の外地事業部。2ヶ年ぐらいだったかな、指導員。韓国船に一人で乗り込んで行ってって指導をやるわけ。日本向けの製品を作る。

―指導員になったのは何時ですか

琉球漁業離れてから外地事業部採用になった時大洋の外地事業部、カナリアで採用親会社の外地事業部

―これは韓国船(写真を見て)?

船員は韓国、ロシアソ連船、イタリア船、に乗って行って指導をやるわけ

―じゃあ韓国船だけに限らず?

韓国船、船員のところに乗って行ってやるわけ、イタリア船の船に乗って行っていた、ロシア船も。

―言葉はどうするのですか

スペイン語で話す。

―スペイン語で全部?ロシア人でも?

大体船の場合は、サイズがあるからこれ見せればすぐ分かる。魚の名前スペイン語で言ったらすぐ分かる。

―指導員の時も拠点は、カナリア諸島?

カナリア諸島。一番最後は一番下のコンゴまで下がっていった。

―そこで操業してまた戻る?カナリア諸島に?

いや、もう指導員の時は、一週間、船がたくさんあるから韓国船ソ連船。一週間おき   

10日ぐらい乗ってまた転船転船、船を回ってから 。一番最後は帰ってきたのは、コンゴから飛行機乗って、日本人二人。スカンジナビア諸島まで戻ってきた。

―完全に船から降りたのは何歳でしたか?

35才、早く降りて、ハマキョーパンに勤めた。ハマキョーパンが24年間。定年まで。

―西区の自分の実家は誰かいるのですか

西区は借屋だった。

―以前、上の平の家をみにいきましたね

あま、オバーター。お母さんの実家(あそこのオバーさんの家は母の実家)。

―お母さんの実家は網元だった?

網元

―あっちの屋号は何と言いますか

ミートーギングヮー。

―その家に行ったとき、隣で不発弾爆発あったとの話をされましたね

「〇〇やー」な。なまん(今も)空き地なとーん(空き地になっている)。

―不発弾から火薬取ろうとしたのですか

火薬の抜き取りをあの家でやっていて。わったーがよ、小学校5,6年上がたん頃(私たちが小学校5,6年の頃)。何名死んだか分からんが死んだんじゃないかな。

―家は全焼した

ミートギングヮ-ぬ窓が焼けた、かーらやーは残っていた。塀と窓がなまやーんてぃんぬくっとーん(今でも残っている)。

―船に乗っている時代は楽しい話が多かったですか

生きがいだよ。旅行できる、だいたいヨーロッパで一泊

あの時代は、カナリア諸島に日本人学校もあったんだよ。商社も多くて。今は、わったー同級生が3名4名くらい残ったかな

―網もいろんな種類がありますね

網の名称、タコ専用の網またヤリイカ専用の網も。変わるわけよ。浮きなんかも付けてよ。  

―自分たちで設計したんですか

全部自分なんかで、秘密よ。船同士で。

―言葉は、スペイン語ですか

大城:陸(カナリア諸島)に上がったらスペイン語。でも日本人やうちなんちゅーぬうふさぬ。日本語、ウチナーグチも沖縄んちゅの多い時は、300名以上いたよ。2つの会社があったから。

―網に入ってくる魚の量は

1回で網に入ってくるあれがよ、5トンくらい 

―この頃は、漁業資源が枯渇するという話は全くなかったのですか

大城:網は魚が沢山入っていて一回で上げきれなくて、分けてから上げていた。

―里帰りは一年に何回ありましたか

1回。はじめは2ヶ年契約、それから1年半あとでは10ヶ月。

―契約期間中はもう帰れないのですか

はじめ2ヶ年行って、2ヶ年契約終わって飛行機で帰ってくる。帰ってきて沖縄で20   

日からひと月休暇取ってからまた行く。

―休暇中は給料が出ないのですか

出る。有給休暇

―じゃあ、雇用は継続されている?

やって、またや買い上げやってから。20日をひと月

―10日分を買い上げして?

うん、買い上げ

―ひと月の休暇っていうのは、自分の好きな時に取れるんですか?それとも正月や盆?

いや、もう交代。はじめは船員一同にやっていたけどあとはもう、一年一年もう…船が20日で帰ってきたらその間に5名ずつで交代。あーもう、全盛時代は日本からジャンボ機、チャーター便で行きよったよ

大洋漁業だけでも何隻来てたかな、沖縄外地事業部だろ、そのまた下関東京那覇。大   洋でも派閥があったわけ。

―これまでの人生で一番楽しかったのは、トロール船乗ってた頃ですか

生きがいにまぁ…

―OB会もあるんでした?

今はもうやらなくなったな、上の人も亡くなって。やろうかーってまた話が出てるけ   ど。

―他の派閥もあるって話していましたけどウチナンチュ以外の人たちもいたわけですよね。割合としてはどれくらいでしたか

沖縄の船会社が2ヶ所。琉球漁業とカシマ水産。一番多い時は、琉球漁業が5隻だっ   

たかな。カシマ水産が4隻だった。だから一緒に上陸したらもう飲み屋街は全部沖縄ウチナンチュ。酒飲んで沖縄ンチュ同士、オーエーし。

また入港し沖縄ンチュがまた飲み屋街んじないちゃーんとぅ、オーエーし飲み屋街の   姐さん連中が沖縄ンチュが喧嘩ちょーんどーと店まで呼びがくーたん。オーエーわったー2期後輩が刺されて亡くなった。刺された。それで内地の船んかい、殴りこみさーに。にんとーしよー夜中うくさーに。やまとぅ、たーくるさーに。

―映画見ているみたい

最初の頃は、まかないんじ殺人事件・・・・昔はウミンチュも気が荒かったんだね。負けん気が強かったな。ナイチャーんたーんかいまきーんみ(本土の人たちに負けない)。こちらにそういう精神があった。

いったーがないるむん、わったーがんないん(あんたたちができることは私たちにもできる)。ちゃんと2ヶ年やった(勤めた)のウチナーンチュだけだよ。あんし(それで)、給料が全然違いよった。同じ船員でも、2級先輩うぃやしが(いたが)手間を10万とぅいんやー(取るが)、わったー(私たちは)1万ちょっと。

―そんな差別があった?

給料やむる(すべて)船員手帳にかかっとぅ(記録されている)。基本給が36???

―沖縄から採用するとすごく安上がりだったわけだ

いん(そう)、大洋漁業外地事業部

―それは、指導員になっても同じ?

指導員は上がった。2年契約やってこれだけって。

―ヤマトンチュと同じ値段にはなるの?ならない?

沖縄ンチュだけで指導員に3名ぐらい引き抜かれた

―ヤマトンチュの指導員とウチナンチュの指導員、給料は一緒?

分からん、あの時は分からん。一緒だったんじゃないんかな

―どれだけもらったのですか

40万円以上はもらった。

―他の国からの乗組員もいましたか

韓国人も多かったってよ、サウジアラビアからも。日本船が全部引き上げて、韓国船が入ってきて、わったーが指導員さーに。

日本向けの魚、タコ、イカ、クブシミ、タイ、全部日本向け。タコがすぐ一回んかい、5トン、すぐ網からタコの塊がポトン。

―今でもタコはほとんど大西洋から来ますよね

モロッコ沖から