--> 海人工房資料館ハマスーキ

第7章 3.父・山城進徳の海人人生

山城新太郎(1952年生まれ)

―私(新太郎)の履歴

 幼稚園のころから舟の上にずっといた。親父から次出るとき「あんた行くね?」と言われるとうんと言ってついていった。

 中学まで油、小麦粉は米軍からの配給。家族の人数を聞いて配給されていた。小学校の給食は脱脂粉

乳だった。遊びと言えば銃弾を拾ってきて、石で挟んでピュンと飛ばして遊

んでいた。火薬でも遊んでいた。

中学生の時、奥間ビーチの米軍のタンク舟に乗って遊んでいた。タンク舟の横に塩ビパイプをつけない

と不安定になる。ずっとそれで遊んでいた。米軍さんは子どもたちには何もしなかった。

中学生の時はタンク船が放置されていた。米軍の軍人が漂流して助けたら、お礼に冷蔵庫を持ってきたりしていた。

高校を卒業して、復帰前の昭和45年に東京に出た。神奈川日産追浜工場に就職したがライン作業がし

んどく。半年で辞めて、3月15日に自衛隊に入隊。入間基地のフライトエンジニアとして勤めた。しかし、親父の体調が悪くなり那覇に戻って来た。その後、父は82歳で心臓まひでポックリと逝ってしまった。

―山城姓の人々の出自と農村の経済事情

親父は国頭出身となっているが、元々は首里の人。北部に山城姓は少ない山城姓は糸満市米須、恩納村山田や名護市許田、本部にもいる。農村の家の長男は親から畑を引き継ぐので良いけど、次男三男は何もない。

稲作は二期作をやっていた。平地は全部田んぼだった、中学から高校まで耕運機を使って、耕していた。海岸や川にはマングローブ、アダンがいっぱい茂っていて、魚もいっぱいいた。他の人の畑もやってあげていた。いーまーるで田植えも稲刈りも、家族総出でみんなでやっていた。米弁当、お菓子も。

豚肉は年に3回くらいしか食べなかった。家で飼っていて、つぶして隣近所で食べていた。

―祖父と父について

爺さんは首里の人で、支那事変で怪我をして帰って来た。首里はそのころ貧乏だった。糸満は魚を売っ

ていて金持ちが多く、農貧しい家の子が(糸満に)雇い子としてやってきていた。

親父、山城進徳は昭和元年、大正15年に生まれた。7歳の時に国頭から糸満に売られた。でも糸満でよかった。他だと暴力事件とかもあったでしょ。家族のように扱ってくれた。(自分が小さい頃は)糸満ハーレーを見に行った時、親父のところに挨拶に行った。

親父は戦争時中に18歳。戦争で同級生はほとんどいない、親父は雇い満了となり糸満の親方がOKと

いうことで軍に引き取られ、食料調達班になった。戦後は苦労したけど、糸満に売られたことで助かった。漁師として腕が良かったと聞いている。

―アギヤー

アギヤー組の人たちは日本軍に召集されずに助かっていた。親父は網を持っていた。浜、辺士名、鏡地、

比地に20名くらいの組員がいた。アギヤーに参加した人は分け前が貰えていた。冬場は沖縄本島の東海岸で漁をしていた。

「アギヤーをやるぞ」でみんな集まる。ふんどし、まるばい(フルチン)でみんな来ていた。パンツ履かずに泳ぐのも気持ちいい。

ミーカガンもしていた。みんな自分で調整して。親父なんかは自分で作っていた。ガラスもプチプチ切

って、こうして、綿を入れて。友達に作ってあげたりもしていた。沖縄の人は横のつながり強い。農業するにしても、イーマール。獲れる・獲れないいのじゃない、参加している人みんなに水揚げを均等にする。みんな苦労してるいからわかるんだと思う。

アギヤーはそんなに深くはないところでやる。魚の群れは真っ黒くしている。奥間はサンゴがキレイ。親父なんかはあの海のどこに何がいるか全部覚えていた。タコの家は100あまり、全部覚えていた。今頃は、アカジンは、イラブチャーは、どこにいるのかわかっていた。

―帆の活用

沖合の漁に出る時はガソリンを積み、帆も持っていった。機械が故障したときに帆で帰る。明け方ま

で帰ってこないときは伊平屋に電話する。大体、伊平屋に着いていた。

大きな横波を受けるとサバニはひっくり返るので、帆を反対側に置くとひっくり返らない。また、帆柱を使って網を担いだりできる。

―天候の見極め

親父のサバニは資料展示館のサバニよりもう少し大きいもので与論まで行っていた。イカはよく獲れていた。8月にはうねりがすごくなっていた。羅針盤も持たず、小さいころから奄美大島など行っていたくらいだから。「今の時期は横殴りの雨が降るから、伊江はこっち」と分かっていた。

―親父の手作りの漁具

親父は82歳まで生きていた、サバニを引っ張って泳いでいることもあった。私が高校生の頃、知り合いの人が「うじ(槍)にゴムつけたのはお前の親父だよ」と話してくれた。「なんで進徳はあんなに魚獲れるのかと」みんなが不思議がって聞くと「与論で弓矢で浅瀬で魚を獲っていたのを見て、銛にゴムをつけることを考案した」と語っていたという。「ゴムは、糸満にあった車の部品を利用した。銛は舟よりも長く9mくらい。銛の端をもって。底を泳ぐ魚に、真上からいって、きゅっと、一発で仕留める神業。あの銛の使い方ができるのは今ではいないだろう」。

竿も自前で作っていた。浜で焼いて強くしていた。しなりも計算に入れていた。モリは鉄を叩いて焼

いて、返しをつけて、結びつけて。長いものは8m。車の部品のゴムを使っていた。

3本指は漁師ではなし。三本だと抜けなくなる。3本もなくてもいいじゃないか。という。3本は今の人が使うもの。ゴムの巻き方は、長くなると逆巻する(前から後ろに向かって巻き付ける)。「何故?」使ってみればわかる、確かに使いやすくなる。本当は一本の硬いゴム。長い奴はみんな逆巻。モリの長さで槍の長さも変えていた。本物はもうないだろうな…。長くなると陸で持ち運ぶのに大変。国頭にはこの竹(ホテイチク)がいっぱいある。

(見本の物はレプリカとして作り直しているだろう)

―ダイナマイト漁について

ダイナマイト漁は、自分が高校(辺士名高校)の頃まで行われていた。ダイナマイトは漁をする人の手作り。そのままの強さだと船が爆発する。導火線を自分たちで調整して作る。

主にキビナゴ、スク、ミジュンを獲る。キビナゴはなかなか取れなかった。群れの真ん中には投げない。

魚が傷んでしまうから。

ダイナマイト漁の場は辺士名沖のサンゴの周辺(あまり言いたくないけど)。びびびびと衝撃が来て、

水がボワッと来て、魚はしびれて浮かび上がる。タモをもって全部掬って取っていた。掬う以外の取り方はない。

誰かが泳いでいるときはダイナマイトを投げることはない。耳がやられる。人が潜っているときはあり

えない。船の上で爆発させてしまい、漁師が死んだことは結構ラジオで聞いていた。

警察が来るが捕まえる気なかったようだ。一応建前で。みんな戦争で苦労しているからね。駐在所の巡

査もみんな友達みたいなものだったから。

お母さんたちが赤い旗をあげてた(何のために)。大丈夫だったら何も上げていない。集落の人はダイ

ナマイト漁に行くのを分かっているので。それを買いにお金とバーキ持って来よった。段々警察も厳しくなって。組も解散した。

―青酸カリの使用

日本軍の自殺用の青酸カリが沢山残っていた。サンゴ礁にいる魚を取るには、潜っていって岩の中に隠れている魚を青酸カリで獲った、赤やら緑やらの魚を。青酸カリをオイル差しに入れて、出てきそうな岩の方に行き、きゅっきゅっとホンのちょっと一滴たらせば、魚がぎゅっと出てくる。アギヤーの仕事が無いときはそれをしていた。

―ササ入れ

青酸カリの他に草を使っていた。夾竹桃は使ったことがない。牛とか死んじゃう。目クラになるよ。イジュだったかな木の皮を砕いて使った。猛毒ではないけど、魚は小さいから効く。

―イカ漁

親父の使っていたイカランプが一個残っていたのを謙さんに譲った。親父は5~6月、与論、慶良間にアオリイカを獲りに行っていた。向こうまで行って、イカランプ(灯油)で集めた。疑似餌で上がってきたのを引っ掛けて獲っていた。小さいイカも餌として使っている。東シナ海と太平洋側の間なので(展示物イカランプ)これより大きい。上の隠しはもっと大きくなる。風よけを兼ねてリフレクター(反射板)とする。

(展示物とげとげのモリ?)もっと大きい、何かで作ったのか(謙さんのイメージサンプル?)

(展示物の魚の尾が)釣りの、まん丸いいくつかついてるの

―サメ漁

イカランプしているとサメが寄ってくる。舟の後ろにすっと寄ってくる。多分イカが欲しいんだろうね。急所をついて仕留める。サメを船の上にあげると大暴れしてしまうので船の横につけて持って帰っていた。サメ肉は干して「ふ」のように切って食べると美味しい。

―電気漁

電気漁は海では使えない。真水じゃないと。エビとウナギに使っていた。さすがに今は使っていない。

―漁師はもうかる仕事

組合は辺士名にあったが機能していなかった。やんばるは田舎だから、貧乏人も多いし。「もってけ」と親父は周りの人に上げていた。おふくろはいつも「てぃーちんじんならん(少しもお金にならん)」と言っていた。

糸満海人は今や30代の人がみんな船を持っている。糸満の船大工の清さんのところに修理に来るのは30代、若いのが来る。漁業は「儲かる」。遠くに行けば監視船として、情報を提供すればお金がらえる。漁業は儲かるみたい。

キッチンの一角

中程度の精度で自動的に生成された説明

山城新徳さんが使用していた銛(約3m)